ファシズムと戦争の区別ができていますか?

 

ファシズムと戦争の区別ができていますか?

1995年に鎌倉近代美術館でナチの<退廃美術展>を見学し当時の記録写真をみたとき、呈示された歴史に、矛盾の感覚にとらわれたことを覚えています。どのような芸術が非ドイツ的で、ナチス統治下の第三帝国には受け入れられないかを国民に示すのが、同展の開催趣旨でした。たしかに、<非ドイツ的>芸術を指示する展示の仕方は、差異を消去する類の暴力でありました。他方で、戦争の破壊衝動とは全然異なる、奇妙にも、整然と、公の美術展の形をとっていました。1995年当時は、このような退廃美術の言説が、それを言うナチスに触発した意味を読むことはできませんでした。現在もわかったとは言えません。が、安倍自民党の、歴史を無意味化していく体制のもとで、なにも言わずに済むというような日常的状況ではなくなってきました。<退廃美術展>のナチは、<ドイツ的>芸術の指示すら意味が成り立たないほどのアナーキーに巻き込まれていったのではないか、と現在考えているところです。ここから、戦争経済を自立化させる経済体制において、戦争プロパガンダのなかで、どれどれの良識を無意味とするのではなく、良識そのものを無意味としてしまう知識人たちが生産されてきた可能性も。<退廃美術展>は芸術の危機、知識人の危機、究極的には人間の危機になっていくとき、この人間の危機からファシズムが産声が聞こえてきたのではなかったでしょうか。ところでファシズムの恐怖を語るときに、戦争の恐怖を語っていることが常です。しかしファシズムは戦争に先行します。だから、戦争によって、戦争を規定したもの(=ファシズム)を明らかにすることはできません。ファシズム->戦争の道筋を繰り返さないためには、ファシズムが何であるかを知ること。ファシズムを知るためには、ファシズムを戦争から差異化する知的作業がどうしても一度必要となってくると考えます。そのためにも、<退廃美術展>について考えることは決して無駄ではないだろうとおもいます。