白紙の本 (3)

白紙の本

翻訳する一文一文がどの国のどの言葉か定かにならないほど左翼的アナーキーか?それとも反動的な、右翼の骨董品的迷宮なのか?しかし「フィネガンズ・ウエイク」は「ユリシーズ」の近代性を失ったのではない。転向にみえても、神話のイェーツのアイルランド的近代があり、そこに留まらず、絶えずリアリズムで超克していく過程を書いたのだ。ジョイスの「自分で決めた亡命 self-imposed exile」は、本当に変な言葉だ。アイルランドを脱出したという意味のほかに、アイルランドを国外へ連れ出したと指摘する意見もきく。たしかに外部の位置から初めて書けるアイルランドの全体像があるだろう。イタリアのトリエステで、ダブリンを舞台にした「ユリシーズ」を書いた。(自分で決めた) 亡命先でかれは一人でアイルランドを取り囲んでしまったということなのか(女房のノラとともに。) それならば、同様に、対象を取り囲む程の占拠が重要で、とにかく人々が囲んでしまえば、閉じられた全体との関係から連続性の破れが生じるとき、脈絡なき思想史の傍で思想が自立するのではないだろうか? 徂...徠は漢文読みは日本語で読むだけにどう読んでもいいと言った。外国語一般についてそうだ。だから外国と一体となって外国語をなんの媒介なく読むべきか?しかし外国人として外国語のテクストを読むことは何を意味するのか?テクストへの入口は、啓蒙主義が唯一ではなく多数あるように、多数存在する!