言説と戦略

安倍自民党への無条件ともいえるほどの大衆的共感はどのようにかんがえてみるべきでしょうか?敵を敵と見做すことができない「過ぎた性善説」のような慣性の如き観念形態の背後に、言説の問題をみないわけにはいきません。民主主義の危機と戦争の危険性をいうことは間違ってはいませんし、好ましいことですが、しかしあえてこのことをいいますと、新たな戦略もなく、民主主義の危機と戦争の危険性に気づくことをいう言説を繰り返しても、現実に人々が一向に危機感を持たないことは明らかです。このような言説の問題は、安倍自民党に民主主義の<起源>を与えてしまう点にあります。安倍自民党がどんなに危険にみえても一応戦後民主主義の<起源>から生まれてきた以上、これを民主主義の敵だとは中々かんがえられない。それどころか安倍政権を安心して支持してしまう方向に(内閣支持率)。だからこそいまは、別の言説も重要になってきたように思います。その言説はこういうものです。大正時代に遡る、大逆事件と大杉の影響で、統制手段として治安維持法の一部としてなんとか天皇主権の形だけの大正デモクラシーが成り立ったが、それすら満州事変で形骸化されてしまったこと、この形骸化された民主主義が昭和ファシズムと戦争を経て、最終的に安倍自民党において完全に骨抜きになったことをかんがえてみることです。この認識にたった言説のほうが、現在の人々の立ち位置を歴史的に伝えるのではないでしょうか。つまり民主主義の敵は、満州事変を始めた陸軍統制派ファシストたちの精神 (至誠) を担って登場してきた安倍自民党だという認識です。つまりここで言っているのは、百年間つづいてきた民主主義を終わらせたこの民主主義の敵を終わらさなければ、民主主義などはけっしてはじまらないという言説を展開する戦略の重要性のことです。