だれが市民か

ヨーロッパは理念型と共に<市民>と<国民>をつくった。ロシアは人民という名のメタ<民族>を、米国はハリウッド映画の<大衆>を、いや、<アメリカ人>をつくった?わたしの学校時代は市民を意味するはずの<公民>という科目があったが、<市民>とは絶対に言われなかった。中国では公民は市民の概念らしいが、兎角台湾で勉強してこよう。ちなみに、ジョイスのDublinersは、フランス語訳の表題のように「ダブリンの人々」という程度の意味で、「ダブリン市民」ではない。マルクス的には、独立商品所有者を意味した「市民」は、アイルランドにおいては、ジョイスの観察からはネガティヴにとらえられた(第二インターの流れをもつ) 権威的民族主義の独立派共和主義者。ただし1990年代以降の反グローバリズムの機運の中、市民概念が変容してきた。ダブリン市民の<市民>という言葉は主権概念に制約されない新しくポジティヴな意味をもってきた。<でもくらてぃあ>の小田実は、単純に、ワイワイガヤガヤと、大きな人間をただす、ウロウロウヨウヨした小さな人間たちを市民といっているようだ。