ファシズムの問題とは近代の問題である

ファシズムの問題とは近代の問題である

われわれはファシズムについてかんがえているときに、実は、ファシズムそのものをかんがえているのではありません。このことを理解するためには、例えば、画家がモデルを描くときのことを思い浮かべてみます。画家は、モデルがモデルである条件、すなわちモデルとともに画家が存在している状態を決して描くことはありません。(つまり自分の姿を絵に示しません。前衛的な?ヴェラスケスの「侍女の間」のようには。)しかし鑑賞者が見ているモデルというのは、ほかならない、画家がみているモデルのことです。問題にかえりますと、われわれはファシズムをかんがえているときに、ただファシズムをかんがえているのは、近代がファシズムを語っているという語り方を隠蔽していることによるだけなのです。ファシズムは近代からしか起きてきませんが、近代は、ファシズムを近代とは無関係な、偶然起きた間違いの如く説明します。が、果たしてそうでしょうか? 近代は自らを正当化するために、近代自身の問題を、全部ファシズムの側に押しつけてしまうことだってできたのかも?それに対してポストモダニズムが暴きだした近代の姿は、ヨーロッパ中心主義の姿です。またポストコロニアリズムが暴きだした近代は、資本主義的蓄積としての植民地主義。ちなみにファシズムの体制は戦争経済を自立化させますが、それは必ずしも戦争とイコールのものではない。では思想史が暴き出すファシズムとはどういうものか?人間はどこからきたのか、どこへ行くのかということを教える言説の文化権力と関係があるとかんがえています。“君たちが駆り立てられて行く戦争は君たちのものではない。「いやだ」というものはいないのか” と、ブレヒトが警戒したのも、ここではなかったか。戦争は君たちのためだと教える言説のことです。君たちは、敵を一人でも殺して来て死んだら神として祀られるのだから戦場でも安心だ、神々として(所有されない)大地を闊歩し、西洋列強から奪えかえせ、と