白紙の本 (4)


白紙の本

20世紀の芸術史を回顧すると、
 芸術理論は脱構築の思想の影響の下に
盲目の言葉の様相を呈するほど饒舌の方向にいくとき、
反対に、作品は益々沈黙していったのである。
 理論と作品が出会うのは、詩のほかにおいてない。
と、思想家の芸術理論を失った反発にたいし
詩人は耳を塞ぐどんな特権もないことに気がつくのだった。
なによりも、詩人は、思考から思考できないもの、
 白紙の本を受け取ってしまったのである

 

68年以降のノンセクトラジカルによって
 マルクス主義の特異点が消去され、
 思想が分散を余儀なくされたとき、
多文化主義国家の民主主義が成立したとすれば、
ポストモダンのモダン化に向かって思想が集中しつつあるいま、
 民主主義は分散させられる。白紙の本は開く、
 帝国のデモクラシーと、市民のグローバル・デモクラシーへと

 

われわれはファシズムについてかんがえているときに、実は、ファシズムそのものをかんがえているのではない。このことを理解するためには、例えば、画家がモデルを描くときのことを思い浮かべてみよう。画家は、モデルがモデルである条件、すなわちモデルとともに画家が存在している状態を決して描くことはない。(つまり自分の姿を絵に示さない。前衛的な?ヴェラスケスの「侍女の間」のようには。)しかし鑑賞者が見ているモデルというのは、ほかならない、画家がみているモデルのことだ。問題にかえると、われわれはファシズムをかんがえているときに、ただファシズムをかんがえているのは、近代がファシズムを語っているという語り方を隠蔽していることによるだけなのだ。ファシズムは近代からしか起きてこないが、近代は、ファシズムを近代とは無関係な、偶然起きた間違いの如く説明する。が、果たしてそうか? 近代は自らを正当化するために、近代自身の問題を、全部ファシズムの側に押しつけてしまうことだってできたのかも?それに対してポストモダニズムが暴きだした近代の姿は、ヨーロッパ中心主義の姿。またポストコロニアリズムが暴きだした近代は、資本主義的蓄積としての植民地主義。ちなみにファシズムの体制は戦争経済を自立化させるが、それは必ずしも戦争とイコールのものではない。では思想史が暴き出すファシズムとはどういうものか?人間はどこからきたのか、どこへ行くのかということを教える言説の文化権力と関係があるとかんがえる。“君たちが駆り立てられて行く戦争は君たちのものではない。「いやだ」というものはいないのか” と、ブレヒトが警戒したのも、ここではなかったか。戦争は君たちのためだと教える言説のことです。君たちは、敵を一人でも殺して来て死んだら神として祀られるのだから戦場でも安心だ、神々として(所有されない)大地を闊歩し、西洋列強から奪えかえせ、と

 

百年後の人々は2015年のわれわれをどのように語るのか?
原発再稼働したわれわれをどのように語るのか?
絶望する。...
ただ左右から中立の立場にあると思い込むだけで
何の感性の成長があったのかと自己に問うとき
原発再稼働の「ネオナチ層」の反動を形成するようなことだけは。
エスカレートする同調圧力の内部でも、
例外者たちは、白紙の本と同様に、
常に外部からあらわれてくるのだろう。
絶望的な状況で、なんとか
内部はトポロジー的に外部と繋がっている
と、楽観的であること。本の端に隠れている虫たちのように
こちらのほうを、百年後の人々ははっきり見えるのだろうけれど
果たして、見るに値するわれわれなのかという問題かもしれない