アイルランド文学の「父なき息子の怒り」を読む

父に怒る息子

アイルランドの反抗者の言葉をどう読むかですが、ドイツの反抗者は、計画的で秩序をもった父たる国家にたいして計画的に秩序を以て反抗するといわれますが、アイルランドの反抗者の場合は、計画も秩序もないアイルランドに計画なく秩序のない反抗を行う「父なき息子の怒り」といわます。そのアイリッシュはイギリス人や日本人と比べて、未来に対して希望があることに気がつきます。植民地化されても、植民地化した過去がないので、たしかに貧しいことは貧しいし、その貧しさゆえの絶望感があるのですが、精神的には「大英帝国」や「八紘一宇」のような罪悪感がないからだと説明されます。「ユリシーズ」のスティーブンの苛立つキャラクターもこうした希望と共存していますが、丸谷才一訳は希望の部分がみえず非常に単調な感じがしますね。 (翻訳ではマリガンはマッチョな体育会系なのはピンときません。「マーテル塔」の三人はパリのカフェの如くダブリンのカフェを想定していたので、多少田舎でも(笑)、彼らなりに超スノッブだったはずなんですよ。(ジョイスは若い時はパリにいましたしね。FW時代にパリへ。) 親しい同級生の渡辺一民氏と議論することもあったという丸谷も、軍国主義の時代を体験していて、この水戸学的な身体を鍛える国体論言説を、体育を奨励したゲール文化復興運動に読んでいたのでしょうか、わかりませんが) “When the Irishman is found outside of Ireland in another environment, he very often becomes a respected man. The economic and intellectual conditions that prevail in his own country do not permit the development of individuality. No one who has any self-respect stays in Ireland, but flees afar as though from a country that has undergone the visitation of an angered Jove.” — James Joyce