ゴダールとアルトー

1980年代における、ウィットゲンシュタインの言語論的転回と比較される、「ヨーロッパ映画」に復帰したゴダールは、シナリオへの依存を否定したつぎの課題が、今度は白紙となった本になにかを書くことだったことは明らかです。実際にゴダールは自らを文字で描く画家というほどでした。思考できないものを思考するという書くことがかれの創作の中心的主題として展開していくことになります。このとき、1980年代のゴダールは、20年代のアルトーが言ったことを繰り返したことは見落とされてはなりません。

「映画の思考は、既存の対象と形の使用から始まるように思われる。それらには何でも語らせることができる。なぜなら自然の配置は奥深く本当に無限だからだ」(アルトー) (The first step in cinematographic thought seems to me be the utilisation of existing objects and forms which can be made to mean everything, because nature is profoundly, infinitely versatile.)

ここでシュールレアリスムの詩人がいう映画は沈黙する映像のことですが、誤解されるのですが、ゴダールが (かれが言及するアルトーと同様に)それほど単純な芸術至上主義ではないのは、映画はふたたび演劇に戻すな、むしろ演劇の外へ脱出させよという芸術の自立にかかわる主張が、68年以降グローバルな世界市場における経済至上主義への道をとった国家の外へ社会主義を脱出させよという政治の主張とパラレルだったことからわかります。その社会主義とはなにか?わかりませんが、ゴダールたちのヌーベルバーグが街頭から映画をつくったことをかんがえると、互いに互いのことを知らない<ウロウロウヨウヨ>した人々が自発的に<ワイワイガヤガヤ>と喋るいわば白紙の本のような社会主義ではないでしょうか。ここの連続した問題意識を見失うと、ゴダールの現在をまったく読むことができなくなってしまいます。