ヨーロッパのテクストを日本で読むことの意味はなにかという問いがあらわれてきたということ。その日本は、外部の東アジアから、常に相対化されること。これが大切ではないかと

当時は学生時代に新聞で毒にも薬にもならない記事を読まされたと覚えていますが、西洋思想の中村雄二郎は、子安先生によると、(子安先生は日本思想史で) 岩波書店の全体の編集の方向を話し合う会議で一緒に働いたことがあったそうです。この大事な会議の場で、当時は日本でそれほど普及していなかった、ポストモダン、ポスト構造主義の言説の重要な意義を説得したということでした。残念ながら肝心の「知の考古学」訳の評判が良いとはいえませんが、兎角投稿した文の出所であるフーコ日本講演の訳をわたしは時々読みます。詳細は説明できませんが、ここでいわれる「時間の諸瞬間の継起」「多くの考える主体の多様性」は各々、起源に関する民族主義的言説、一国家の複数政党制に関する言説のこと。そのことを踏まえた上で、民族主義言説を展開する安倍自民党の政権のもとで議会制民主主義が決定的に形骸化した現在、これから何が起きてくるのかを読むために示唆に富んだ分析とおもいます。グローバル資本主義時代の東アジアの問題を考えるためにも。相変わらず日本人の間にしか存在しない'フランス思想'のヨーロッパ人になったつもりでヨーロッパの思想を語るだけという同時代性の神話(知の鎖国?)が揺らぐことがないままですが、東アジアにおいては考えるということは、ヨーロッパ<ー日本、日本<ーアジア、アジア<ーヨーロッパという環の構造の認識が不可欠ではないか、そういう意味で今回台湾訪問はアジアから(自分が属している)日本の言説の限界を考えてみるという大切な機会となりました。

 

フーコを日本で読むことの意味はなにかという問いがあらわれてきたということ。その日本は、外部の台湾から、常に相対化されること。これが大切ではないかと

 

Si les événements discursifs doivent être traités selon des series homogènes, mais discontinues les unes par rapport aux autres, quell statut faut-il donner à ce discontinu? Il ne s'agit, bien entendu, ni de la succession des instants du temps, ni de la pluralité des divers sujets pensants; il s'agit de césures qui brisent l'instant et dispersant le sujet en pliuralité de positions et de fonctions possibles. Une telle discontinuité frappe et invalide les plus petites unites traditionnellement reconnues ou les moins facilement contestées; l'instant et le sujet. Et , au-dessous d'aux, indépendemment d'eux, il faut concevoir entre ces series discontinues des relations qui ne sont pas de l'ordre de la succession ( ou de la simultanéité) dans ine (ou plusieurs) conscience;il faut élaborer - en dehors des philosophies du sujet et du temps - une théorie des systématicités discontinues. 'Michel Foucault' L'ordre du discours.'

「もしも言説=出来事が、等質的な、しかし互いに非連続的な系にしたがって扱われるべきであるなら、この非連続性に対していかなる規約を与えねばならないでありましょうか。ここで問題なのは、もちろん、時間の諸瞬間の継起でもなければ、多くの考える主体の多様性でもなくて、瞬間を破り、主体を場所と潜在的な機能の多様性のうちに分散させる区切り(セジュール)であります。このような非連続性は、伝統的に認められた最小の統一をも、あるいは、この上なく異論をとなえがたい統一をも、つまり瞬間と主体とを、うちのめし、無効なものにする。そして、それらの底に、それらとは別個に、こうした非連続的な系の間に、一つの(あるいは複数の)意識における継起(あるいは同時性)の秩序に属さない諸関係をみとめるべきである。主体と時間の哲学のほかに、非連続的な体系性の理論を念入りにつくり上げるべきであります。(フーコ「言説の秩序」より、中村雄二郎訳)