子安宣邦氏の台湾講演について

子安宣邦氏の台湾講演について (1)

思想史はその対象に、思想をもつ学問です。重要な点は、思想史が外部の多様性から、思想の成立を批判的に問う方法性に依ること。思想史は、 「日本思想史」と「日本思想」、この両者が、20世紀の言説を構成する上で互いに切り離せない密接な関係にあったことを明らかにしますが、果たして(近代が作者のように物語った)この二つは、意味作用の中心へと絡み取られてしまい (近代にとって都合よく)、その結果日本列島とそこの住民の古代風の姿を実体的に思い描くような起源の物語に後退することが起きなかったのでしょうか?歴史的に、この点が問われるべき問題です。 (本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (1 「日本思想史」の成立)
「 私がここで掲げる主題「日本思想史の成立」とは、「日本思想史」という学問的方法的概念の成立をいうのであって、日本思想史の起源的成立を問うことではありません。その意味ではこの主題を「日本思想の成立」と言い換えることもできます。なぜなら「日本思想」という概念が何らかの形で成立してはじめて、その歴史的な展開が「日本思想史」として問われることになるのですから。ですから「日本思想史の成立」の問題とは「日本思想の成立」の問題でもあるのです。「日本思想史の成立」という主題をこのように考える私の理解の前提には、「日本思想史」という概念も、その対象としての「日本思想」という概念も歴史的な言説上の構成物だという見解があります。その時期をはっきりいえば近代20世紀の日本に成立したものです。それらは決して日本列島とそこの住民とともに古代風(アルカイック)の姿をもって自ずから存立したものではありません。」


子安宣邦氏の台湾講演について (2)

固有性の言説は、痕跡としてある<複合的なもの>を隠蔽・消去することにほかならない。ここでの議論は、'宇宙に始めがあったか?なかったか?'の教説にたいするカントの批判(「純粋理性批判」)の仕方とパラレルである。過去の姿である「日本人の言葉も心も」が固有だと言うまえに、いつの時点のそれをとってくるのか?なぜその時点の「日本人の言葉も心も」が特権的な一点として在るのか?説明できないだろう。「日本人の言葉も心」は消滅しつくしたか、あるいは、消滅したときに漢字書記テクスト「古事記」を住処とするようになって再構成されたと考えられないか。書かれたテクストの痕跡を消して<日本的なもの>を無理に解釈するよりは、書かれたテクストの複合性から<外部的なもの>を読んでいけば十分ではないか。民族国家は自己自身に純粋?国家の教説を教えてきただけである。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (1 「日本思想史」の成立)
「だが日本で近世(前近代、プレ・モダーン)と呼ばれる徳川時代国学者本居宣長(1730-1801)は日本人の言葉も心も考え方も日本列島とその住民に固有のものだということを、日本最古の漢字書記テクスト「古事記」(712成立) の注釈を通じて言いだしました。<日本的なもの>の固有性が宣長によって最初に思想的体系性をもって主張されたのです。しかし漢字書記テキスト「古事記」による<日本的なもの>の主張には、複合的なものをあえて純粋化していく作為と飛躍と、そして隠蔽がともなわざるをえません。いずれにしろ民族国家(ネイション・ステイト)日本が要請していたのです。」


子安宣邦氏の台湾講演について (3)

明治以降、だれが<日本的なもの>を語り出していくのか?いかに、「日本思想史」「日本精神史」が成り立つのか?民族国家が<日本的なもの>を語り始めた。つまり戦争する国家が、ヨーロッパの知(文献学・解釈学的方法)によって、自己自身のために、純粋な?国家の教説を教えてきたのである。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (1 「日本思想史」の成立)
「私は宣長たち国学者を<日本的なもの>の固有主義的な主張者だとみなします。アメリカの日本研究者宣長らの国学をnativismと訳しますが、それは正しい訳し方です。この宣長らによる<日本はもともと日本である>という固有主義は、明治(1868)以降の近代国家のなかで民族=国家主義(nationalism) として継承されていきます。そしてこの近代に継承された<日本的なもの>をめぐる思惟と志向は、昭和(1925)にいたってヨーロッパ文献学、解釈学的方法をもって「日本思想史」あるいは「日本精神史」を成立させることになります。日本人の思想的テキストだけではない。あらゆる言語表現から解釈的に抽出される「日本思想」「日本精神」そして「日本的民族性」が記述されていくことになります。昭和とは第一次世界大戦を通じて世界先進国の仲間入りをした日本が全体主義国家へと転身していく時期です。昭和の全体主義国家日本とは中国大陸における帝国主義的覇権を賭けた戦争へと向かう日本です。その昭和日本が「日本思想」を「日本思想史」とともに成立させたということができます。


子安宣邦氏の台湾講演について (4)

本居宣長は、荻生徂徠から大きな影響を受けている。帝国主義<日本>の天皇の問題は、ストレートに、<日本>を創出した宣長の問題にほかならない。宣長と日本思想史の内部にありながらいかに、宣長と日本思想史を解体することができるか?(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (2「日本思想史」とは何であったか)
私の日本思想史の始まりは、国学者宣長による<日本>創出作業の批判的解読にあります。宣長の「古事記伝」という古事記の注釈作業とは実は<日本>というものの創出作業であることを明らかにしたのが、私の宣長研究です。ですから私の日本思想史的作業は<日本>を創出する宣長国学の解体から始まったのです。私にとって「日本思想史」は両義的です。私は既成の日本思想史を解体しながら、なお日本思想史にかかわっていました。



子安宣邦氏の台湾講演について (5)

内部に絡みとられていく、「日本とは日本である」という自己同一性の言説。「日本とは日本である」が真実であるのはただ、それを言う主体が日本思想史のパラダイムによるだけなのであるが(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (2「日本思想史」とは何であったか)
私は1980年代の終わりの時期、大阪大学日本学講座の授業で唐突に「私は日本思想史を止める」といい出したことがあります。日本思想史というものが現実にある学問的な事態にほとほと嫌気がさしたからであります。宣長の「古事記」注釈が<日本>を創出していったように、日本思想史が<日本>を発見し、<日本思想>を記述していく。これは<日本>という自己同一性の記述、すなわち「日本とは日本である」といった同義反復的な記述に過ぎません。<理念史的>日本思想史は<近代>の肯定的形成過程の記述か、あるいは否定的思想系譜の批判的記述かといった近代主義以外の方法的視点をもとうとはしていなかったのです。


子安宣邦氏の台湾講演について (6)

< 日本とは日本である>という言説がそれを言う日本思想史家に触発した意味は、60年代から通じなくなってくる。われわれが直面していたのがグローバルな<後期近代>と呼ばれる現代世界であるならば、日本思想史は日本の外から日本をみるパラダイムへの転換が必要になってきたということ (本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (2「日本思想史」とは何であったか)
< 日本>の自己同一性にかかわる日本思想史や<近代主義>的日本思想史が意味をもちえたのは、日本における<近代>の再構築が国家的目標とされた戦後日本の60年までの時期でしょう。60年というのは日本の安全保障体制をめぐる国論を二分するような<安保闘争>が展開された年です。この60年を境にして日本はグローバルな世界市場における経済大国への道をはっきりととっていきます。われわれが直面しているのは<後期近代>と呼ばれる現代世界であることを日本思想史家は気づこうともしません。日本思想史は転換されねばならなかったのです。


子安宣邦氏の台湾講演について (7)

1990年は、89年のベルリンの壁の崩壊が起きた年。スターリ二ズムと昭和天皇がともに終わった年だったが、20世紀的戦争の方は終わらず、見えない戦争という形でより陰険で無感覚な恐怖が今日までずっとつづいている。89年を契機に、二か月ぐらいニューヨークを旅した。十数年間のヨーロッパ行きを考えることになったのは、旅のときに読んだソンターグの本からの影響かもしれない。はっきりしたことはわからないが、戻ってきたときは、フーコの読み方が変わった、というか、日本に閉じこもっていてはもうなにも読めなくなってきたとおもった。「「事件」としての徂徠学」との出会いは、この思いを決定的にしたのだった。ここから、ヨーロッパのテクスト、フーコを日本で読むことの意味はなにかという問いがあらわれてきたということ。ヨーロッパの日本は、外部のアジアから、たとえば台湾のような外部から相対化されること。

以下、子安宣邦氏の講演より (3「日本思想史」の方法的転換)
1970年から80年代にかけて私は日本思想史の方法論的な模索を続けていました。私が方法的な転換をはっきり遂げたのは85年にいたってです。私の「「事件」としての徂徠学」(青土社、1990年)はこの転換を表現するものです。私はこの転換を哲学の「言語論的転換」に因んで「言説論的転換」と呼んでいます。簡単にいえば、ある言説の思想史的意味を、その時代の、あるいは来るべき時代の言説的空間に向けて何が新たに言い出されたのかという言説の<事件性>においてとらることです。意味を言説的テキストの内部に、あるいは作者の内部に求め、それをテキストから読み出すのではなく、テキストの外部に、同時代の、あるいはそれを隔てた読み手や受け手とのかかわりにおいて見出していくことです。要するにこれは日本の思想的テキストを<日本的>同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から、あるいは<あるべき近代>の歴史遡行的な近代主義者の自己確認的言語回路から解放するための方法的転換をいうのです。


子安宣邦氏の台湾講演について (8)

18世紀の伊藤仁斎はカントと同時代であった。戦後民主主義の近代を批判的に相対化するために、あえて18世紀から読むことの重要性。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (3「日本思想史」とは何であったか)
「方法としての江戸」とは、この方法的転換の一つの具現化です。<近代>から、<東京>から見るという思想史的視点を転換させ、<前近代の江戸>から見ることによって<日本近代>として実現されたものを批判的に相対化することを目指していたのです。私の方法的転換のもう一つの具現化とは、まさしく日本の思想的テキストを<日本的>同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から解放することです。それは一国思想史の世界化、あるいは一国思想史の自己否定というべきかもしれません。端的にいえば日本の17世紀の儒学者伊藤仁斎(1627-1705)の思想の世界的意味をどうとらるかということです。ここからまさしく今日ここでの主題に真っ直ぐに入っていくことになります。


子安宣邦氏の台湾講演について (9)

山口 昌男「文化と両義性」に書いてあるような天皇の祭祀的な構造主義は、批判されることがなく無傷なままです。(本居宣長を喚起する) かれの祭祀的な構造主義は、周縁が中心を活性化させるという異化効果をいうですが、これは内部に絡みとられていくだけの差異化・秩序化でしかない。思想の自立とはなにか?これは、<中心と周縁の間の弁証法>的に問うことからはなにも生まれない。むしろ思想の自立をいう言説がそれを言う主体を触発する意味を問うこと。思想史は、グローバル資本主義の分割を現状的に肯定する帝国の現在に包み込まれてしうのではなく、市民が生きる未来の方へ行くこと。オキュパイ運動以降の運動に対応した精神のあり方として、破れ傘的に、新たな帝国の支配に穴をあけていくような知を構成していくこと。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (4 東アジア儒学世界)
私は1990年ごろからしばしば台湾を訪れ、中国儒学(哲学)研究者と交流をもつようになりました。私は日本の近世儒学の展開を東アジアの儒学世界の中でとらえてみようと考えていました。だがこの時期、儒学の東アジア各地における多様的展開を内包した<東アジア儒学>という概念は成立していませんでした。東アジア世界には<中国儒学>が存在するのであって、<東亜儒学>があるわけではなかったのです。この認識は台湾や中国だけでもたれていたものではなく、日本の中国学者儒学研究者も共有するものでした。当時私がここに来て知ったのは台湾の中哲研究者との強い結びつきでした。一国思想史の枠を出ようとして台湾に来た私は、旧帝国の中哲的学問世界にここで包み込まれてしまうように思いました。中国儒学・哲学の<帝国>的な持続的存立がまず問われなければならないと私は考えました。<帝国>とは民族的、国家的多様を<中心と周縁>という関係をもって差異化し、秩序化していく支配の秩序です。



子安宣邦氏の台湾講演について (10)

多様体多様体である。多様体は一に包摂されえない。<一的多様体>の言説は結局、一の支配をいう言説でしかないことをしっかり見抜くこと。その上で「東亜」概念の再構築は、多元的再構成の主張であった。しかし現在、この多元主義の主張はすっかり帝国的な言説の内部に一元的に再包摂されてしまっている。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (4 東アジア儒学世界)
私は台湾で開かれる学術シンポに数多く出席して、<方法としての東亜>を提唱しながら、<帝国>としてではなく、多様性多様性として意味をもった<東アジア世界>の多元的再構成を主張してきました(子安「東亜儒学;批判と方法」台大出版中心、2004、参照)。それから十数年を経た今、<東亜儒学>が台湾で、そして中国で理念的にも、制度的にも成立しているように思われます。だがそれははたして多様性多様性として意味をもつような多元的な東アジア儒教世界の成立を意味するものでしょうか。残念ながら私が見ているのは一元的<帝国>的儒学の中心ー周縁的関係性をもって差異化された東亜儒学体系として記述される東亜世界の成立です。日本儒学・朝鮮儒学琉球儒学などなどはいま<帝国>的中国儒学に再包摂されているのです。



子安宣邦氏の台湾講演について (11)

一国の議会制的組織だけに頼れなくなった、非暴力の抵抗から一人一人の自発性が推し進めていく、白紙の本のごとくあらわれてくる市民たちの'でもくらてぃあ'と小田実が呼んだ多様性。(本多)

以下、子安宣邦氏の講演より (4 東アジア儒学世界)
考えてみれば私が日本の儒学思想の積極的意味づけを求めて東アジアの多元的世界としての再構成を主張していった時期は、大国中国が中華主義的<帝国>としての存立のあり方を強めていった時期と重なります。だから東アジアを多元的儒教世界として再構成することの私の主張が、東亜儒学世界としての<帝国>的再包摂を促したと人はいうかもしれません。だが私がいう多元的東アジアと<帝国>的一元的東亜世界とは決定的に違うといわなければなりません。そもとをいわなければならないのはまさしく今です。その今とは中国が<帝国>的存立のあり方を一層強め、香港の政治的多様性を否認しようとしている今であり、自立的多様体としての台湾がその自己主張を明確にしている今です。地域的な多様体多様体として積極的な意味をもち、<帝国>的東亜世界を形成する道とは決定的に違うと、今はっきりといわねばなりません。



子安宣邦氏の台湾講演について (12)

なぜ人間性を否定するヘイトスピーチがはじまったのか? 今回現地でお世話になった台湾の学生たちに、日本の一部全国新聞や全国書店が助長するヘイトスピーチのことを告げると驚いていました。台湾では少なくとも新聞と書店が公に少数民族を差別する言説を展開することはあり得ないと。それにたいして、なぜこの国では新聞と書店によるヘイトスピーチの恥ずべき関与が公然と起きるのでしょうか?一体いつ、あのような人間性を根本から否定するヘイトスピーチははじまったのか?それは、90年代にはじまる最近のことだと思います。これについてはひとつの考えかたとして、柄谷がいう<帝国>の構造から説明してみると、安倍の「この道しかない」とばかり、<帝国>のアメリカの側に必死につきたいとする安倍自民党の日本が、米国が敵対する他者、すなわち別の<帝国>、中国を文化論的な言語で必死に罵倒しまくるという言説の構造がみえてくるのではないでしょうか。帝国の文化帝国主義の根底に経済がある以上、競争する他者を語る言説はどうしても敵対的になることが避けられません。わたしが帝国を正当化する言説に疑いをもちまた警戒しているのは、まさに、こういう理由からなのです。


以下、子安宣邦氏の講演より (4 東アジア儒学世界)
日本についていえば、今日本の安倍政権はアメリカとの軍事的同盟関係を自国のいっそうの軍事化によって固めながら、日本のナショナル・アイデンティティーを強めるという対抗<帝国>的路線を進んでいます。これは私がいう多元的な東アジア世界への道にまったく反する独善的な一国主義的な道です。それは日本の思想と言語とを不毛にしていく道です。それは決して日本の思想を豊かにしていく道ではありません。私は「日本思想史の成立」という形での私への問いかけにすでに答えています。

子安宣邦氏の台湾講演について (13)

台湾で学んだこと、考えたこと。グローバル資本主義が現れたとき、資本主義は同じではなくなりました。このとき、市民に起きたことかが何かはわからないが、ただこれから起きることだけははっきりとわかります。つまり、市民が分散を余儀なくされたとき、一国構造<民族と国家>が成立したとすれば、市民が集合しつつあるいま、一国構造は分散させられるのではないでしょうか。さて、柄谷行人は一国構造の問題を多様体に関する一般的考察のひとつの場合とみなしたのにたいして、子安氏は一国構造の問題を分離することによって、多様体の問題を、<一>に還元されない<多>の問題として呈示することができました。つまり、柄谷行人は東アジアの多様体のあり方を帝国的に再包摂することが問題だったところに、子安氏は東アジアの市民性の問題を出現させたのです。思想史については、それは一国構造のもとで所謂一国思想史の様相を帯びていましたが、この一国構造がぐらついている現在、思想史を再び一国構造に戻しても仕方ありません。白紙の本というべき非暴力型抵抗に委ねるしかなくなったときめた、アジア・デモクラシーの台湾・香港・沖縄の市民たちが一字一字、一行一行、自分たちの思想の自立を自発的に書きはじめたのではないでしょうか。



以下、子安宣邦氏の講演より (4 東アジア儒学世界)
最後に関東大震災(1923)の際、日本陸軍によって虐殺された無政府主義的社会主義大杉栄(1885-1923)の言葉を引いておきたいと思います。「人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことが問題なのだ。・・・労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働運動というこの大きな白紙の本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。」(大杉「社会的理想論」) この大杉の言葉にしたがっていえば、アジア・デモクラシーといべきわれわれの運動が<東アジア>という大きな白紙の本の中に刻みつけていく一字一字、一行一行が「台湾思想」であり、「日本思想」ではないでしょうか。