白紙の本 (8)

白紙の本

ヨーロッパでは、ある画家の絵というのは、本人の絵、弟子たちが描いた絵、他の画家が真似たもどきの絵、ただよく似た絵、その画家の影響下に描かれているはずなのに類似していない絵、同じ部屋におかれている理由か不明な匿名の絵などに囲まれて存在していた。つぎの部屋に行くと、他の画家たちの、連続しているが、後戻りしないイメージに取り囲まれる。そのうち自分がどこの部屋から来たかを忘れる。わが眼を疑う。前の部屋に戻る。そうして、部屋と部屋に区切られてはいるが、どの絵もヴァリエーションの連続的な配置にあるといえよう。が、さらに別の部屋に行くと、説明がつかない、過去の時代の繰り返しとはいえないような絵が突然現れる。一回限りのカラバッチョの絵から、ルネッサンスとは共通性のない、まったく新しいものが生まれるようにおもわれる。ピカソが、他の画家たちの絵を、自分の内部から内部に即して配置していったようには・・・。東京の展示の場合は、どうも人々は絵を見に来ているのではなく、描かれている社会の情報を人類学者のように、あるいは画家の生い立ちを調べる精神分析者のよう...に、重い責任で分析しているみたいだな。白紙の本に存在するイマージュで他の映像と関係をもたないような映像は一つとしてないし、同時に、存在するどの映像も他の映像と無関係である。どの絵にも特権としての起源の観念を適用する理由がない。この関係・無関係の全体の傍らに、ケージが音を入れる必要がないところで偶然の沈黙に委ねたような余白があり、そうしてヴェラスケスの絵の中にタブローがあらわれることになった。たしかにわれわれが見えないこの裏側に全体が示されているはずなのだが。1970年代のポストモダンとポスト構造主義は、この「侍女たち」から、それまで語られることがなかったことを初めて語ることができた。だが現在批評の言葉は、ピカソが見落とすことがなく省略することができなかったほどの、ベラスケスが一番前景に配置した侍女たちの手とまなざしからはじめたそのラディカルさを、十分に実現しているといえるだろうか?すでにベラスケスは帝国の崩壊を暗示していたのに。絵画について書いているときは、美術館にある絵画ではなく、寧ろ映画の絵画を思い浮かべております。白紙の本のなかであらわれてくる絵画は、部屋から部屋へではなく、ショットからショットへという過程にあらわれます。