白紙の本 (10)

白紙の本

ヨーロッパは、自ら自身のことを語るとき、どうしても、叙事詩ユリシーズ」という故郷への帰還の言説に依らなければならなかった。この言説がそれを再び書くジョイスに触発した意味は、帰還とは正反対の意味であった。つまりジョイスは帰るためには、外部性、自発的に亡命する必要のことを書いたのである。たとえ帰るときでも必然として常に遅れが生じること。さて1990年は、89年のベルリンの壁の崩壊が起きた年。スターリ二ズムと昭和天皇がともに終わった年だったが、20世紀的戦争の方は終わらず、見えない戦争という形でより陰険で無感覚な恐怖が今日までずっとつづいている。89年を契機に、二か月ぐらいニューヨークを旅した。十数年間のヨーロッパ行きを考えることになったのは、旅のときに読んだソンターグの本からの影響かもしれない。はっきりしたことはわからないが、戻ってきたときは、フーコの読み方が変わった、というか、日本に閉じこもっていてはもうなにも読めなくなってきたとおもった。「「事件」としての徂徠学」との出会いは、この思いを決定的にしたのだった。ここから、ヨーロッパのテクスト、フーコを日本で読むことの意味はなにかという問いがあらわれてきたということ。ヨーロッパの日本は、外部のアジアから、たとえば台湾のような外部から相対化されること。そうして白紙の本は至る場所に偏在する徴となった。帰るためには絶えず迂回すること、白紙の本は現在進行形である