破れ傘 (1)

破れ傘 (1)

大したことはなくても、外国語の本もそれなりに読めると、訳本の正確さはどうでもよくなるものです。そもそも外国語が母国語に翻訳できないと思って高をくくるからですが、興味深いことに、これと同様に、思想の内部に何かをおくひとは時々、外国人のつもりで外国語を読む人のようであります。思想の奥に、翻訳不可能な外国語としての概念が存在するのですね。哲学辞典をひらけば、近代は公の広場にたつ銅像のように立派ないろいろな概念に支えられていることがわかります。ところが私は、思考の対象に、動かないそんな特権的な場所を与えるのが頗る苦手。単純に、能力がないからですが、ひとつひとつの概念に穴があくようではそんなのは思想ではないといわれるにきまっています。しかし思想にとって一体なにが思想なのでしょうか?外国の本を日本語で読むことの意味を問うことは思想とはいえないのでしょうか。外国語と母国語、二点のあいだの距離を無限に豊かにすることは思想に値しないでしょうか。思考の対象に破れ傘を与えることは、思想を台無しにしてしまうことなのでしょうか?