東アジアのグローバル・デモクラシーと市民の思想史の展開ー「帝国か民主か -中国と東アジア問題」

 

 

レジスタント運動のサルトルのジレンマは、かりにファシズムをやっつけてもそのかわりに資本主義が勝利したらいったい意味があるのだろうかというものでした。このサルトルのジレンマとは逆に、反グローバル資本主義の意思表示であった、2009年ロンドンでのG20開催とサッチャーリズムの労働党に反対した中央銀行前広場の占拠のときは、この占拠によって、労働党の信頼が決定的に失墜し、しかしそのかわりもっと悪いファシズム的な保守党が政権をとるとしたら、意味があるのだろうかなどと占拠の現場で共に話し合ったものですが、これは市民のオキュパイ運動へと発展していく先行した事件であったことはたしかです。さて三年前はサイードを読んでいましたが、この三年間のあいだに、「選ぶ」民主主義の「合意」生産・流通の物質主義にたいする不信感はかわりませんが、現在の知的な関心は、歴史を重んじるポストコロニアリズム研究と文化相対主義から、形式を重んじる普遍 (=無限)を擁護していく存在論的倫理学と大きく移ってきました。No general ethics, no universal rightsという言葉でいわれるように、普遍的に、東アジアの倫理学と権利について考えるようになりました。東アジアにおいてもっとヨーロッパの自由と権利が確立していく可能性がないかとおもっています。子安宣邦氏が指摘するとおり、21世紀にみえてきたのは、グローバル資本主義と<帝国>と民主主義です。グローバル資本主義の分割は、<帝国>を中心に推進されています。具体的には、新自由主義新保守主義のアメリカ<帝国>、(EUから) 第四帝国へ行くヨーロッパ<帝国>、スターリン主義=ボルシェヴィキズム=ツァーリズムに戻るロシア<帝国>、そして官僚資本主義の新儒教の中国<帝国>、であります。「帝国」を正当化する危険な言説が大きな影響力をもちはじめるかもしれません。これに関して言うと、安倍自民党は日本をなんとかアメリカの側に位置づけようとして必死に、対抗・中国帝国としての危険な役割を引き受けているようにみえます。東アジアは、この安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険な権力ゲームに囚われています。このゲームの内側で、民主主義の形骸化は、安倍をはじめとするこうした1%のネオリベの新貴族たちによって推し進められているではありませんか。一方、冒頭にのべた、非暴力の抵抗であるオキュパイ運動からalternativeの民主主義が現れてきたことは、注目したい動きであります。民衆的自治・自由論・民衆的直接的行動論を「民主主義」の真の再生の力にしていく語る民主主義。そこで、市民の思想史は、東アジアのグローバル・デモクラシー=白紙の本になにを書くことができるのか? 子安宣邦氏の「帝国か民主か」が問うているのはまさに、このことなのではないでしょうか。