'憲法記念日'は憲法の記念日ならば、忘れられていることだが、それは自然法の記念日でもあるだろう

 

'憲法記念日'は憲法の記念日ならば、そうであればこそ、忘れられていることですが、フランス革命を契機に新たに問われることになった自然権・社会契約論の記念日でもあるのです。そうして、憲法憲法であるのはただ、憲法の語りがこうした自然権・社会契約論に依ることによって。が、自然権・社会契約論を語っているときにいつも、実定法の秩序と規律を語っているのはなぜでしょうか?つまり、国家に対する根本的批判の問いが、お決まりのように?、参政権のお話に置き換えられてしまうことが繰り返されてきました。これについては、戦前の思想史についてしらべると、自然法=実定法という等値は、拡大していく天皇ファシズム権威主義体制に妥協する形で、自らの言説、民本主義の内容を現状肯定的に縮小していくことになった吉野作造からはじまること、そういう可能性があります。ここで集団的自衛権の問題について一言。勝手に国家が世界第何位の戦力を与えた自衛隊とともに地球の裏側にいくことは、いくら国家の側に必要だと繰り返しいわれても、(将来、'国際人道主義'というアメリカのナショナリズムで行くことになるかもしれません)、市民にとっては意味があるのか?意味がないというふうに批判できるのはただ、社会契約論的な抵抗権を内容とする自然権から。 どうしても、自然権的に、市民という理念を想定することがなければ、たとえば安倍自民党の'この道しかない' でいわれる内部的な実定性だけではやっていけなくなるのではないか?その場合、市民という理念は、既に確立した観念とは無関係に、身体が介入する事件を契機に毎回新しい思考の呈示としてあらわれてくること、そうでなければ理念は腐敗・消滅してしまうこと。だから文学・詩・絵画・演劇・映画などの芸術的言語の発明をともなってあらわれてくる必要があること。Badiouがいうように、哲学がいかに芸術と愛、数学と物理学、政治とかかわってつくられていくのか?現在はこの予測できないことを目撃できる時代なのかもしれません