「偏在するコレ性」でいわれる意味はなにか

 

 

もはやドゥルーズは古典です。左翼的に、右翼的にも解釈できるという意味で。「アンチ・オィデプス」も「ミルプラトー」も左翼の独占物ではありません。そこで、素朴な右翼の言説とおもわれたくなかったら、ドゥルーズの言葉からひいてきた千葉氏の<偏在するコレ性>は、日本の暴力の問題に即して考えることが大切で、とりあえず<集中するコレ性>は私の造語ですが、もし現在安倍がやろうとしていることが様態的にA級戦犯英霊を<偏在するコレ性>から<集中するコレ性>へと生産しようとしていることならば、それにたいして、思想は、例えば憲法の理念性において、抑圧してくる<偏在するコレ性>と<集中するコレ性>を共に消滅させていくことが可能なのか、その場合どんな理論構成があるのかを積極的に問うときではないでしょうか。私に関しては無力であり、絶望もしていますが、ただ、抑圧してくる権力を相対化するためにも、一体なにが日本の暴力、権力を構成するのかをできるだけ明らかにしていくような言語化の抵抗のことはつねにかんがえています。