ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」と、<帝国>アメリカのどの国家の固有性に根ざさない包摂のあり方

わかっているだけでも、50か国語以上の言語を利用して書かれているジョイス「フィネガンズ・ウエイク」(FW) の和訳は、現在に至るまで7種類ぐらいあるそうです。トリエステの国際シンポジウムの場で、一番最新の日本語訳のことを告げたら、ハンガリー人研究者が苦笑いで、「翻訳としても何語からの翻訳訳なのか?」と呆れました。この言葉はこのFWの読むことができない本質をついたものです。もはや19世紀にゲール語の消滅が事実上起き、誰もケルトの古文書を読めなくなった後に、二十世紀にどこの国の言葉にも翻訳不可能な文学が現れてくることは何を意味するのか?米国の知識人達の間でジョイスの作品が毎年上位を占めるのはなぜなのか?これをグローバル資本主義の時代の<帝国>の包摂してくるイデオロギー的教説に即してかんがえると、<帝国>ヨーロッパを規定する神話とリアリズム、<帝国>ロシアの一国社会主義的ツアーリズム・スターリズム、<帝国>中国の新儒教がありますが、これらとは異なる、<帝国>アメリカの、どの国家の固有性に根ざさない包摂のあり方を、彼らが同一化しようとするジョイスのテクストの読みからもしかしたら読み解くことができるかもしれませんね。一考の価値があるとおもいます

(追加)

ゲール語の消滅が起きた後に二十世紀にアイルランド語の再建が起きる一方で、どこの国の言葉も翻訳不可能な「フィネガンズウエイク」が現れました。それが<帝国>アメリカのどの国家の固有性に根ざさぬ包摂を代理するとしたら、プルーストゴダールは忘却によってその包摂から脱出できる時間の道を示したのです。さてゴダールの映画史は、いかにプルーストを読むのかを問うた映画であったといっても言いすぎではありません。本で読んで考えるところを、敢えて映画でプルーストを考える意味はなにかとゴダールは問うたのです。ヒチコックのシナリオは忘れられていくが、ハンドバッグ・砂漠の中のバス・一杯のミルク・風車小屋の羽根・ヘアブラシ・並んだボトル・眼鏡・一枚の楽譜のことは覚えているのは、映画の事物が永遠に記憶されるみたいです。なぜ人間は物語を忘れて事物のイメージを忘れないのか?忘れまいとする意志だけでは説明しきれないでしょう。消滅しきったかにおもえた記憶が偶然の介入で再びおもいだされるとき、同じ事物が同じようには繰り返されないようにみえます。長い時間のおかげで、事物と物語の直接的結びつきが解かれているからでしょうか?一方、(生者を選別していくことを隠す)国民道徳・(死者を選別していくことを隠す) A級戦犯合祀靖国神社などは本当は人々が憎んでいる事物なき物語、ただ愛しているふりをしているだけの物語。愛しているふりをしている人々のあいだでも、憎まれているこれらの物語は忘れられていくにちがいありません。それらは、選別と排除を行う事物としての自身を、平等をもとめる人々に開示できないまま捨てられていくだけです。未来の互いに愛する人々のあいだでよみがえることは決してないでしょう。