岡倉天心の平和主義理念を再構築するような、東アジアのノリナガ二ズム (あるいは、東アジアの反ノリナガ二ズム)は不可能だろうか?

光州事件を証言した、韓国のアーチストが、反靖国をアピールするために、東アジアのヤスクニズムと称した展示をブレヒト小屋で行うようです。数年前に洪さんの講演会に出ました。東アジアの人々は、靖国神社という日本国家のあり方にたいして事なかれ主義的に目を逸らさずに、批判的に向き合わなければならないと言っていました。ところで、われわれは東アジアのヤスクニズムをみるだけで、われわれはなにもしなくてよいのだろうか?かつて、芸術の側から、岡倉天心がいう「東洋」とは、帝国主義に組み込まれまいとする、アジアにおける非暴力抵抗の平和主義の理念的構成でした。この岡倉の理念を再構築するような、東アジアのノリナガ二ズム(あるいは、東アジアの反ノリナガ二ズム)は不可能だろうか?(中近東を含む)を侵略する戦争体制に抗議する、平和主義の理念でなければなりません。ここで戦争体制とは、集団的自衛権徴兵制核武装、また貧困問題を解決せずに再び一国体制的な戦争経済を自立化させていくことに集中する体制です。だがなぜノリナガなのか?本居宣長とは誰かを知る必要があります。天皇の言説の思想性をとらえようとすれば、荻生徂徠から影響を受けたこの人の仕事を無視できません。天皇制を批判するとは、本居宣長を批判することにほかなりません。だからといって、(昭和の天皇ファシズムが近代国家からしか生じないことを無視した)近代主義者のセレブ達がやるようには、江戸時代に生きた、近代国家がなかった、在野の思想家をファシストもどきものとして糾弾するのは行き過ぎた反省でした。思想家を擁護しますと、当時宣長が、民衆の立場からの幕府批判の意味をともなって、中国文明からの自立を唱えたとしても、近代的な意味で、国家の敵対他者に対する揶揄とみなすことに無理がある。宣長の時代には、今日アジアに対する憎悪を口にする安倍とお友達(NHK経営委員会の長谷川)が同一化しようとする国家がなかったのですからね。当時宣長中国文明からの自立を唱えたとしても、近代的な意味で、国家の敵対他者に対する揶揄とみなすことに無理がある。宣長の時代には、今日アジアに対する憎悪を口にする安倍とお友達(NHK経営委員会の長谷川)が同一化しようとする国家がなかったのですからね。宣長の自立の思想でかつて意味されていた内容を解釈的に問うことよりも、むしろ、宣長が今日生きていたら今日のコンテクストで自立を思想的にどのように発展させていくかを問うことも大切かもしれません。ヨーロッパ・アメリカ・ロシア・中国から現れてくる、グローバル資本主義を分割した<帝国>の権威主義からの自立を訴えたのではあるまいかー平和の共存をのぞむ地球のすべての共同体の自立のために。包摂してくる<帝国>を、共同体の傷つきやすい身体を損なう外敵として表象してうえで、<帝国>の一元主義的全体性の論理を罵ったかもしれません。東アジアのヤスク二ズムが批判する靖国神社といっしょに、近世・近代の伊勢神宮の国体形成の歴史もまた批判的に論じられるべきときです。