シュールレアリスムを排除したナチス<世界>と、世界史の「資本論」を語りださせている現代日本の読書人・知識人<世界>

子安氏は、現代日本の読書人・知識人がピケティについて論じるとき、彼が行っている経済学・統計学・人類学・言語学などの知見をさかんに取り入れた民衆の生活に注目する「社会史」的視点、アナール派の視点を完全に無視していることに不満を述べています。
これについて考えてみたいと思います。近代の読書人・知識人の自己触発auto-affectionとは、主観性subjectivity又は対自性the for-itselfへの可能性のことです。現象学的にいって、声 (フォーネー) との統一性を前提としたこの自己触発を伴わずしては世界worldが現れることはありません。ナチスシュールレアリスムを怖れたのは、同様に「資本論」の現代日本の知識人・知識人が「世界史」(唯物史観なき)ピケティを怖れているのは、かれらの自己触発の世界を脅かすからではないでしょうか?そうすると、問題は、子安氏がいうように、20世紀的思想の呪縛に存します。たとえば、ファシズムは、シュールレアリスムを排除したナチス<世界>から始まって、「資本論」を再び語りださせている現代日本の読書人・知識人<世界>に至って完成したのではないかと?と、そこまで行かないとしても、しかし、つぎのことはしっかりと考えなければならないでしょう。
グローバル資本主義を分析した柄谷の「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」は、「世界史」の「資本論」の決定的記述でした。だからこそ、東アジアのグローバルデモクラシーの、<帝国>に抵抗する市民的<世界>が事件として起きたとしても、「唯物史観」の「知」の内部から内部に沿って、「世界史」の声、「資本論」の声をもたないかぎり、そのような世界は無に等しいことになったのです。最初に述べたように、「世界史」「唯物史観」の教説には、自らみとめる通り、個別的な貧困問題が存在しません。