ゴダールの映画史は、いかにプルーストを読むのかを問うた映画であった。本で読んで考えるところを、敢えて映画でプルーストを考える意味はなにかとゴダールは問うたのだ。

ゲール語の消滅が起きた後に二十世紀にアイルランド語の再建が起きる一方で、どこの国の言葉も翻訳不可能な「フィネガンズウエイク」が現れた。それが<帝国>アメリカのどの国家の固有性に根ざさぬ包摂を代理するとしたら、プルーストゴダールは忘却によってその包摂から脱出できる時間の道を示した。

ゴダールの映画史は、いかにプルーストを読むのかを問うた映画であったといっても言いすぎではありません。本で読んで考えるところを、敢えて映画でプルーストを考える意味はなにかとゴダールは問うたのです。ヒチコックのシナリオは忘れられていくが、ハンドバッグ・砂漠の中のバス・一杯のミルク・風車小屋の羽根・ヘアブラシ・並んだボトル・眼鏡・一枚の楽譜のことは覚えているのは、映画の事物が永遠に記憶されるみたいです。なぜ人間は物語を忘れて事物のイメージを忘れないのか?忘れまいとする意志だけでは説明しきれないでしょう。消滅しきったかにおもえた記憶が偶然の介入で再びおもいだされるとき、同じ事物が同じようには繰り返されないようにみえます。長い時間のおかげで、事物と物語の直接的結びつきが解かれているからでしょうか?一方、(生者を選別していくことを隠す)国民道徳・(死者を選別していくことを隠す) A級戦犯合祀靖国神社などは本当は人々が憎んでいる事物なき物語、ただ愛しているふりをしているだけの物語。愛しているふりをしている人々のあいだでも、憎まれているこれらの物語は忘れられていくにちがいありません。それらは、選別と排除を行う事物としての自身を, 平等をもとめる人々に開示できないまま捨てられていくだけです。未来の互いに愛する人々のあいだでよみがえることは決してないでしょう。