<帝国>化するアメリカとはなにか?

 

 19世紀にゲール語の消滅が事実上起きた後に、二十世紀にアイルランド語の再建が起きる一方で、どこの国の言葉も翻訳不可能な「フィネガンズ・ウエイク」が現れました。わかっているだけでも、50か国語以上の言語を利用して書かれているジョイス「フィネガンズ・ウエイク」の和訳は、現在に至るまで7種類ぐらいあるそうです。ところがトリエステの国際シンポジウムの場で、一番最新の日本語訳のことを告げたら、ハンガリー人研究者が苦笑いで、「翻訳としても何語からの翻訳訳なのか?」と呆れました。この言葉はこのFWの読むことができない本質をついたものです。にもかかわらず、米国の知識人達の間でジョイスの作品が毎年上位を占めるのはなぜなのか?読むことができないからこそ、読まれるのでしょうか?

これをグローバル資本主義の時代の<帝国>の包摂してくるイデオロギー的教説に即してかんがえると、<帝国>アメリカの、どの国家の固有性に根ざさない包摂のあり方は、アメリカ知識人達が同一化しようとするジョイスのテクストの読みからもしかしたら読み解くことができるかもしれません。(「フィネガンズ・ウエイク」が、<帝国>アメリカのどの国家の固有性に根ざさぬ包摂を代理するとしたら、プルーストゴダールは忘却によってその包摂から脱出できる時間の道を示したと考えます)

さて、 <帝国>アメリカとは、こうした包摂の原理と、1%の人々だけが(0.1%、0.01%・・・∞)意味があるという反民主主義的言説から成り立っています。自民党の安倍は、TPPと集団的自衛権によって、<帝国>の周辺としての日本を打ち立てたいわけです。そして<帝国>アメリカは流通と伝達の<帝国> (ゴダールが抵抗したハリウッド映画・テレビ、今日はインターネット。) しかし決して単純ではありません。イラク戦争以降、ヨーロッパからの批判で、もはやアメリカは(ヨーロッパをリードする)民主主義の代名詞とはならなくなりましたが、それでもアメリカの (60年代以降発展させた公民権運動) デモクラシーの意義はだれもがみとめていて人々が愛している言説ですが、これは自民党の安倍がもっとも拒絶している言説です。他方で、安倍が自分に都合よく好んでいるのは、<帝国>化していくアメリカの資本主義的市場の選別と排除の言説です。いわゆるネオリベラリズムグローバリズム。しかしこれこそは、99%の人々が憎んでいる言説、1%のただ愛しているふりをしているだけの言説です。私が思うのは、1%のあいだでも、99%に憎まれている言説ではやっていけなくなるときが必然的にくるのではないかということ。地球環境の危機を含めて、貧困問題が存在しないかのように格差の拡大生産の合意をもとめる教説は、選別と排除を行う事物としての自身のあり方を、デモクラシー的平等をもとめる人々に次第に開示できなくなってくるのではないか、だんだんと存続することが無理になっていくのではないでしょうか。99%の側にいる自発性をもった人々が、<帝国>化していくアメリカの1%の<意味>のために包摂してくるような言説の(物質化した)空間を占拠し包囲したのが、ウォール・ストリートのオキュパイ運動でした。<帝国>、あるいは<帝国>の方向があるかぎり、貧困問題の解決がはじまらないのではないかと考えているところです。