<帝国> ロシアを考える

 

新たに、<政治としての芸術>が新たにツァーリズム的社会主義の一点に結集しています。フーコ的に問うと、スターリンの一国社会主義ー国家の下に社会主義をおくーは、どこへ消えてしまったのか? ですが、これについては、ネグリの帝国論とは別の切り口で分析している柄谷行人によると、過去の一国社会主義は、グローバル資本主義の分割として、<帝国>を住処として再構成されていることの理解の重要性を指摘しています。つまりそれがツァーリズム的社会主義のことなのです。実際にロシアは他のヨーロッパ・アメリカ・中国との対抗において<帝国>化しています。自らの周辺として、ウクライナを組み入れようとするのでしょうか?報じられていたウクライナの暴動については、ロシアの側は(混乱した)民族主義の現れときめつけていますが、しかし本当のところ、ウクライナ市民の蜂起は、グローバル資本主義とその分割である<帝国>ロシアに抵抗していると読むべきではないでしょうか。再び皇帝のような存在が権力の表舞台に出てくるのは、フランス革命前の絶対主義の時代を喚起します。二十年代に大杉栄が取材したウクライナの記憶は生き延びることができるのか?<帝国>ロシアの包摂という言語のゴシック的イコン画のような垂直化が始まろうとするなかで、市民は何を主張するのか?帝国に包摂されないかれらの白紙の生になにを書くのか?

ポストモダニズムマルクス主義批判であるけれどもマルクス主義それ自体を捨て去ってしまっては全部がゼロになってしまうという危険性がありました。しかしだからといって、いまから、ポストモダンのモダニズム化という反動に絡みとられて、再び国家の近代に語らせることよりは、一人ひとり自らが語るチャンスが回ってきたときがやって来たのだと考えてときではないでしょうか。それは、いかに市民が自分たちの白紙の生、白紙の本を書くかということ。ここで「白紙の本」と大杉が言った内容を言い表したと私が考えるフーコの文を示しておきます。ここでは本と政治を区別していないような錯覚が起きるのはやや驚きを禁じえません。「問題はもはや、自然にかかわる経験が必然的な諸判断を生じさせることがいかにして可能か? ではない。それこそ。人間が自ら思考しないものを思考し、無言の占有といった様態のもとにみずからを逃れていくもののうちに住み、いわば凝固した運動ともいえるものによって、頑固な外部性という形式のもとで自分に示される自分自身のあの形象に活気をあたえる、そうしたことがいかにして可能か?ということにほかならぬ。」

映画「ロシアの戯れる子供たち」のなかで、Tolstoi, Tchekhov, Dostoievski, Eisenstein, Vertov, Poudovkine, Dovjenko, Paradjanov, Tarkovsky、と、ゴダールは自分に影響を与えた文学者・監督の名を読みあげたのは何故だったのか?「ロシアの子供」でいわれる「子供」の意味は、シナリオに依存しない媒介なき新しい映画をつくるという、新しく「白紙の本」を書くような主体を表しているといえないでしょうか。またフランス革命とも関係があるかもしれません。アナキズムか?国家か?とフランス革命以降に論争が起きて言語が集中したとき、アナキズムの側で白紙の本を書く人々を、ゴダールは「子供達」と考えている可能性があります。ゴダールもその一人だったと思いますが、戦後の知識人の中で、内側に絡みとられない思考の柔軟性を以てあたかも白紙の本を書く「子供達」としての自らのあり方を再構成しようとした者たちは、フーコと彼がスターリニズム全体主義に抗するために書いた「言葉と物」の人文科学からの問いを必要としていました。最後に、翻訳者の渡辺先生は、スターリンヒトラーと手を結んで30年代の反ファシズム人民戦線を崩壊させた事実を知りながら、戦後のハンガリー動乱までスターリ二ズムに抗議できなかったサルトルを非難していました。ただし対ドイツのレジスタント運動は評価。理論的には多様性を考えるうえで、フーコのアイロニーの思想が遥かに重要でした。