憲法の近代を読む

憲法の近代を読む

佐藤幸治は、「1945年8月15日は、明治憲法下の日本が、大正デモクラシーのような一定の成果を上げながら、どうしてひたすら戦争に突き進んでいったか」を問いている。そうして「戦争は立憲主義の最大の敵」とする理念をもった戦後憲法のもとで、なぜ現在の安倍自民党が戦争に向かうのかを言っている。現在の佐藤の行動と発言は大いに評価するが、ただし近代主義が依存している大正デモクラシー観はそのまま受け入れるべきかというと、そうではないとおもう。この点について箇条書きにすると、
1、日本は事実上自民党の<選ぶ>民主主義しかないことの問題。またそれに対応して国民の方も、「大逆事件」以降、選挙しかないのだと考えてきたことの問題。ヨーロッパでは社会政策の絶えざる見直しが自発的な市民運動と連動して実現しているのに、「日本では市民運動が必ず挫折してしまう」のはなぜか?ひとつの考え方として、「大逆事件」に遡ることで、国家が先取りする形で自発的な民主主義の根を徹底的に取り除いてしまったことをいま一度考えてみるべきではないか。
2、幸徳秋水大杉栄が民衆が依拠するヨーロッパの市民倫理を打ち出したことに対して、国家の側は危機感をもった結果、統制するために国民道徳で抑え込んできた歴史がある。大正デモクラシーも、日比谷公園焼き討ち事件の暴動を統制するために治安維持法とともに普通選挙権をあたえたこと。ここから、戦争の拡大を望んだ国民のもとで満州事変が起きてくることの問題。軍国主義大正デモクラシーを中断させたのではなく、統制のシステムであった大正デモクラシーそのものが軍国主義を担ったことで、自ら消滅し尽くしたのではないかという問題。
3、佐藤が言うようには、戦後において戦争が終わっていないこと。戦争を終わらせていないこと。このことの例として、イラク戦争で明らかになったように、アメリカは戦争をしたいから戦争をするだけなのに、自民党防衛大臣が、「地球の裏」まで米軍にくっついていく正当化を集団的自衛権を禁止した憲法にもとめていること。なんのために戦争をしているかわからなくっていたこの前の戦争と同じで、もうすでに自分たちがなにをしているのか分からなくなっているという問題。内閣支持率でみると国民の半分がこのような安倍内閣に共感をもっていることの問題。「太平洋戦争」という言い方ですでに日本がアジアにもたらした戦争を隠ぺいしている問題。

毎日新聞からの引用;「佐藤氏は、神権的観念と立憲主義の両要素を含んでいた明治憲法下の日本が、憲法学者美濃部達吉の「天皇機関説」の否定を契機に「奈落への疾走を加速させ」、太平洋戦争に突入していった歴史を説明。終戦の日の1945年8月15日は、明治憲法下の日本が、大正デモクラシーのような一定の成果を上げながら、どうしてひたすら戦争に突き進んでいったかについて、根本的な反省を加え、日本のかたちの抜本的な再構築に取り組むスタートとなるべき日だったと指摘した。また、アジアの人々に筆舌に尽くしがたい苦しみを与えたことも踏まえ「悔恨と鎮魂」を伴う作業が必要だったと話した。第二次世界大戦後、各国では、大戦の悲劇を踏まえ、軍国主義を防げなかった憲法の意義をとらえ直す動きが起こったという。佐藤氏はその結果、(1)憲法制定権力として国民が、統治権力による権力の乱用を防ぐ仕組みを作る(2)基本的人権の保障を徹底する(3)「戦争は立憲主義の最大の敵」という考えから、平和国家への志向を憲法に明記するなどの原則が強調されることになり、日本国憲法にはその特質がよく表れているとした。」