迷路のヴェニスで考える思想史

迷路のヴェニスで考える思想史

迷路はいつ迷路となるのかといえば、歩いている道の外に道しかないという信がないときだと仁斎は言うだろう。
人々の歩いている道に先行する聖人の道がなければ迷路だと徂徠は言うにちがいない。
道がある限りそれは自立できない迷路でしかないと宣長は言うだろうか。...
わが魂が平等に祀られるず休まることなければ迷路だと篤胤は言うか。
祭祀国家の徳では近代国家は言論なき迷路に行くと福沢は言いたかったのか。
道は人と人の間の関係が成り立たなければ人倫の道無き迷路にほかならないと和辻は言っていたのか。
この末法の時代に消滅し切った絶対の過去を愛することができないようでは理念性なき迷路だと三木は言ったのか。
アジアの独自の道に行くことがなく西欧の近代にとどまるようでは、と同時にそのアジアの道を超えて行くことがなければ、西欧に彷徨う迷路だと竹内は言っていたのではないか。
大衆より先に行ったり大衆の元に戻ったりするという運動に知識人が意味を見いだすことができないときは迷路だと吉本は言う
ワイワイガヤガヤ、ウロウロウヨウヨする市民が道に現れてこなければ国家は正されることがない迷路だと小田は言っていたのだ

 

迷路はいつ、迷路となるのかー ヴェニスデリダ

迷路はいつ、迷路となるのか? それは直線となるとき迷路となる。遠回りしない直進的進行こそは迷路であるとデリダは言いたかったのじゃないかな