なぜ原発を止めれないのか、なぜ基地をやめられないのか、そしてもう一つ、戦争が終わっても、なぜ自衛隊がいつまでも戻ってこないのか、という問題がくるでしょう。

なぜ原発を止めれないのか、なぜ基地をやめられないのか、そしてもう一つ、戦争が終わっても、なぜ自衛隊がいつまでも戻ってこないのか、という問題がくるでしょう。集団的自衛権強行採決前に、 憲法学アカデミズムの違憲声明に対して「数が問題ではない」 という安部内閣の答弁ほどグロテスクなものはなく、この前の戦争のときのように自分達が何をしてるのかわからないというほど、頭が沸騰していて、心の方が氷河よりも冷たくなっています。米国を「守る」という無理、集団的自衛権の目的の無意味さを冷静に考えるために、違憲に海外に派遣された自衛隊がどういう条件で紛争地から撤退するのかを政府に説明させることはできないでしょうか。

米国を「守る」 ことの無理、 集団的自衛権の目的の無意味を考えるために、 違憲に海外派遣される自衛隊がどのような条件で撤退するのかを政府に説明させることはできないかと書いたが、 この問いがどうして米国を「 守る」ことの無理、 また集団的自衛権の無意味さの認識を導くことになるのかについてその理由をここに補っておくと、こうです。イラク戦争でも繰り返されたことですが、米国は、 (ホワイトハウスにとって都合がいい) 新しい政府が出来るまでは、たとえ事実上「敵」が消滅しても、爆撃を続けるのです。この点についてネオリベラルのフラシスフクヤマが呆れる口調で指摘した様に、「大きな政府」を信用しない米国政府が紛争地で「大きな政府」をつくれるとどうして思い込むのか、つくれるはずがないのであると。そうしてぶっ壊すだけとなった(と非難される)アメリカを「守る」 という自衛隊はアメリカと共に、紛争地からいつまで帰って来ることはないことが起きます。そういう可能性が高いのですけど、日本政府は自衛隊の撤退条件を明らかにすることなど到底出来るはずがないのです。

 

ヴェニスを発つとき新聞の見出しの言葉に目が留まりました。「イラク戦争以降、親父に兄貴、今度は弟、という名前のテロリズムが共和党の大統領候補名簿に起きている」と、ルモンド紙は揶揄、本当にその通り。ブッシュ家のイラク戦争の体制は変わっていません。それならば、こちら側で、満州侵略と太平洋戦争を推進してきた A 級戦犯の「孫」の存在は何と喩えるかと列車の中で三時間考えてみました。やはり民主主義に対するテロリズムの類かというのがミラノ中央駅に着いたときに得た結論。愚かな私でも旅で日本の外へ出るとみえてくるものがあります。日比谷公園を焼き討ちした大衆の亡霊?(爆撃の決定が先行していた、米国が捏造した、「大量殺戮兵器」の敵の存在を攻撃したと同じように)国家のテロリズムであった、大逆事件から始まる戦争はずっと続いているのでは?安定した高い支持率、かくも国民の共感を集める自民党安部内閣は、グローバル資本主義を舞台とした、昭和の戦争のカタストロフィを招いた、戦争経済の自立化を体系化していった明治と大正からの戦争体制の完成とみる批判的視点が必要と思います。全体の進行に巻き込まれるばかりでなく、相対化していく認識をもって巻き返していくことができないと自分に問いかけています