近代の多様性 ー たとえば近代の様態である'変な'イタリア的近代と'変な'日本的近代をかんがえる

この書き出しはいかにも柄谷的書き方ですこしばかり躊躇いたしますが、イタリアに行っている間に考えていたのは、近代の多様な実現の仕方についてです。'変な'イタリアと'変な'日本を比較するのは中々楽しいものです。しかしそうした比較のときは、ほんとうは、普遍主義的近代の様態である、イタリア的近代と日本的近代を比べていたのではなかったかと気がつきました。たとえば、'国家神道'という言い方にある種の隠蔽はないか?靖国「神社」は、指でその位置を指せるような、日本的近代の枠組みにある、近代国家を可視化した機能ではないかとおもうようになりました。靖国というのは、日本的近代のありかた、ブループリントというか、可視化した権力関係の網目のひとつ。だから靖国をやめることは、日本的近代を超える努力となります。逆に、やめれないのは、安倍の日本的近代を超えようとはしないからではないでしょうか。強調しておきたい点は、ここでいう日本的近代は、(永久に底なし沼のように停滞する)'前近代'のことではなく、近代が自らを実現していく一つのありかた、というのがわたしの構成です。そしてここから、原発をやめること、戦争を終わらせること、つまり靖国をやめること、これらは、近代である日本的近代を超えていく一つのことだとおもっています。国民投票などでヨーロッパが止めることをはっきりと決めた危険な原発の再稼働をゆるし、平和共存を望む人々のおもいを裏切るA級戦犯合祀の靖国の首相公式参拝を終わらせられずでは、いくら'アジアで民主主義をリードしてきた日本'と言っても、それは、思想史的にいって、ほんとうに日本的近代を超えていく言説として成り立つのだろうかと自らに問いただしているところです