起源フェチの全体主義をちょっぴりでも相対化するために、気がついたこと、日常的なところから

成田エクスプレスに乗ると日本語・イギリス語のあと、中国語、ハングル語という順番でアナウンスがありますが、あたかも文句なく自然に決められたような居心地よいこのワンパターンの順番に違和感を覚えるのは、私だけかもしれません。ところで古代の朝鮮半島で「論語」を教えた中国知識人は最初に古代中国語で読み上げ次に古代朝鮮語で解説したと考えられます。では、このアナロジーにしたがい、同様の教授の仕方で、日本列島に来た朝鮮知識人は、最初に、古代朝鮮語で読み上げて、次に日本語で解説したとかんがえてよいのでありましょうか?その場にいたわけではないので(笑)、真実はわかりませんが(そりぁそうだ)、しかしこの問いの立て方がどうも正確ではないようです。(難し言い方ですが、やはり「近代」のバイアスがあります。) 古代朝鮮の方言(と形式的に想定されるもの)で解説した可能性についてかんがえおくことはそれなりの意義があります。(もしデリダの思想を生かすならば)、そもそも「日本語」の「日本」の観念は、漢字の音声化の後にしか生まれてこないのですから注意する必要があるでしょう。大野のようにタミル語とか日本語の起源をさがす骨折りの実証的作業はあくまでも専門家の間の研究です。むしろ思想史において決定的なのは、合理的な知の営みとして働く原初の言語だけです。つまり市民は、漢字で構成された書記言語から考えていくことの意味を考えることが大切とおもうのです。成田エキスプレス車内放送の最初の言語は国際語で文句ないのですが (フランス語でも放送していただきたいが)、あとに続く言葉としては、中国語、ハングル語、日本語という順番で時々は、時々でいいのですが、やるときは不意打ち的にやっていただきたいものですね。兎に角 「にほんごで考える思想」みたいなブームとなっている起源フェチの全体主義をちょっぴりでも相対化する必要があるみたい