SUMMARY <No.2> ー戦争の死者たち、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より

SUMMARY <No.2>
ー戦争の死者たち、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より

・日本帝国の近代現代史はいかに、沖縄の上に覆いかぶさるのか?帝国の内部者の共犯者的認識には限界がある。帝国の外部を見ることができないこと、あるいは帝国の内部者であることを認めようとはしないとき、朝鮮が歴史的な死角となるのと同様に、琉球を歴史的に認めることがないだろう。1897年に「琉球処分」という日本政府の強制手段によって琉球沖縄県となったのである。
・帝国の内部はいかに、形成されるのか?沖縄 (沖縄それ自身) を考えるとき、靖国神社の問題を避けることはできない。なぜか?ナショナリズムの問題がある。
ナショナリズムとは排他的に、自己を選別するイデオロギーである」。それは選別と排除をおこなうために表にし分類し境界をつくる、いわば知の数える体系と一体となしている。戦う国家はだれも祀らない。戦う国家は自らを祀るだけだ。国家は自らしか祀らないので自らを数えるだけである。だからこそ「国家によって数えられた戦死者は「英霊」として祀られる。数えられない戦争犠牲者、殺された無数の市民は放置される。」

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「私が沖縄を知らねばならないと痛感したのは、決して古いことではない。むしろ最近のことである。それは恥ずかしいことだ。学生時代」、反戦活動にかかわっていた私が沖縄の基地問題に無関心であったわけではない。さらに「ひめゆり塔」は「きけわだつみの声」とともに、私の反戦活動を動機づけるものとしてあった。しかし私にとって沖縄はその範囲に止まっていたのである。沖縄の上に日本帝国の近代現代史が無惨に刻みつけていったものが何であったのかを、私はそれ以上知ろうとはしなかった。帝国の内部者の先天的・後天的に規定している認識の限界をこれることは難しいことである、人はどうしようもなくその限界の内側にあって自足してしまうのだ、私はこれを言い訳としていうのではない。自戒としていうのである。帝国の外部を見ることができないのは、自分が帝国の内部者、すなわち内部的自閉者であることを認めようとしないからである。日本人は歴史的に、朝鮮を認めてこようとはしなかった。私は朝鮮を日本人の死角であると言ってきた。そして現代の日本人はただ「韓流」の韓国だけを見出しているのである。本土の日本人は歴史的に、琉球を認めなかった。「琉球処分」という日本政府の強制手段によって琉球沖縄県となったのである。それは1897年のことである。八月一五日とは異なる六月二三日という終戦の日を沖縄が持ち、沖縄がなお「基地の島」であり続ける理由は、歴史的にはここにある。その沖縄にいま本土日本人は「青い鳥」だけを見出しているのである。」
「私は五年前、元首相小泉純一郎による挑発的な靖国参拝に思想史家として抗議せねばならないと考えた。「国家神道の現在」の副題をもつ「国家と祭祀」はそのような動機から書かれたのである。「国家と祭祀」は日本帝国を支えた二つの国家神道的祭祀、すなわち伊勢神宮靖国神社の祭祀をめぐる論を柱としている。伊勢神宮(内宮)は天皇の祖先神天照大神祭神としている。天照大神は「皇祖」あるいは「天祖」と呼ばれる祭神である。それゆえ伊勢神宮天皇制的祭祀国家として現出する近代国家にとって聖なる祭祀的中心をなしてきたのである。それに対して靖国神社は日本帝国の永続的繁栄を見守る「護国の鬼神」として、明治以来の軍事的犠牲者を「英霊」として祀ってきたのである。戦前の靖国神社を主管してきたのは、したがって帝国の陸・海軍省であった。靖国神社とは、軍事国家日本の祭祀的中心であった。多くの日本人にとってここに説明してきた事実はすでに自明ではなくなっている。それらは変容され、あるいは隠されることで、戦後60年をこえる今日における伊勢神宮靖国神社もあるのである。いま沖縄を考えようとする私たちにとって問題なのは、靖国神社とそこに祀られる「英霊」という死者たちである。」
「軍事国家日本の祭祀的中心であった靖国神社が、非戦的憲法をもつ戦後憲法でなお首相の公式参拝を要請し、首相もまたその要請に応えようとするのはなぜなのか。小泉は靖国に参拝し、戦後日本の繁栄の礎となった戦争犠牲者を追悼し、平和を祈念するという。それは主権国家日本の首相としての当然のことだと小泉はいう。だが彼はだれに向かって参拝しているのか。彼が参拝しているのは「英霊」と呼ばれる戦争犠牲者ではないか。それは「英霊」として区別された戦死者
ではないか。日本帝国のかかわる戦争の現代史には「英霊」と呼ばれない数えきれない戦争犠牲者がいるのである。ナショナリズムとは排他的に、自己を選別するイデオロギーである。そうだ、靖国参拝と主権国家日本の首相としての当然の死者の選別行為であるのだ。国家によって数えられた戦死者は「英霊」として祀られる。数えられない戦争犠牲者、殺された無数の市民は放置される。このことに気づいたとき私の眼は沖縄に向かった。沖縄に触れることなくしては私の「国家と祭祀」は終わらないと思った。」