SUMMARY <No.3> ー沖縄と祀られない死者、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より

・戦争を推進している自分たちが何をしているのかわからなくなっている、終わりのない戦う国家の悲惨。「日本軍の組織的戦闘は終わったが、しかし司令官が自決し、しかも、生き残っている者は生きている限り最後まで戦えと言い残していったために、沖縄戦は終わりのない戦闘になってしまった」「だがこの終わりのない戦闘に従わざるをえなかった日本軍よりも、はるかにむごい、残酷な運命にしたがったのは沖縄の住民たちであった」
・「生きつづける国家が死者を選別し、死者をまた見捨てるのである。」この選別の問題を解決するためには、再び、死者を選別する国家のあり方に依拠することは不可能だし、倫理的にゆるされない。市民は、「この見捨てられた死者の側に立たねばならない。」A級戦犯を合祀した靖国への首相の公式参拝をみとめることはできない。


「私は「国家と祭祀」の最終章でこう書いている。私はここにあえてその文章を直接引用したい。この文章がなお人びとに訴えるものをもっていると信じるからである。
沖縄への修学旅行をしなければ私の戦後過程は終わらないと思ってきた。しかしなおそれは果たされずにいる。その果たされない沖縄旅行という穴を埋めてくれたのは「沖縄修学旅行」という案内書であった。この本は沖縄に修学旅行をしようとする高校生たちのために、沖縄の戦中・戦後史を重要な柱として編まれた沖縄案内記である。読むものにとってはつらい沖縄戦の記述を読み進めていくうちに私は覚らざるをえなかった。あれほど覚悟していた本土決戦がなぜ回避されたのか。当時小学校高学年であった私は死の恐怖とともに本土決戦が必ずあるものと予想していたのである。なぜ本土決戦は回避されたのか。沖縄が本土決戦に代わるものをより凄惨な形でしてしまったからである。「日本軍の組織的戦闘は終わったが、しかし司令官が自決し、しかも、生き残っている者は生きている限り最後まで戦えと言い残していったために、沖縄戦は終わりのない戦闘になってしまった。じっさい、沖縄の日本軍が嘉手納飛行場で正式に降伏調印するのは、日本が降伏した8月15日から23日もたった9月7日であ」った。だがこの終わりのない戦闘に従わざるをえなかった日本軍よりも、はるかにむごい、残酷な運命にしたがったのは沖縄の住民たちであった。
 沖縄本島の攻撃に先立って米軍は慶良間諸島を攻略した。沖縄戦での「極限の悲劇」ともいうべき事態がそこに現出していた。肉親どうしが殺し合った住民の「集団自決」である。その犠牲者は700名にのぼったとされる。防衛庁の編集する戦史「沖縄方面陸軍作戦」にこう書かれている。「小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、・・・戦闘員の煩累を断つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶ったものも生じた'」古木をもって殴打し、妻子を死においやらざるをえなかった父親の悲劇は「崇高な精神」などという言葉でよびうるものではない。そんな虚偽的美辞を泥まみれにし、血まみれにして突き返すような死に沖縄は満ち満ちているのだ。沖縄県民の四人に一人が沖縄戦で死んだのである。この死は国家によって祀られない死である。この国家によって死に追いやられた死者、そして国家が決して祀ることのない死者は靖国をめぐる美辞麗句が虚偽でしかないことを教えている。戦う国家は祀る英霊とともに祀られない死者を国の内外に大量にもたらすのである。」

「この沖縄戦で戦没した日本軍の戦闘員は94136人である。そしてこの戦争で亡くなった沖縄の沖縄の一般住民はそれとほぼ同数の94000人である。なおアメリカ軍の沖縄戦による戦没者は12520人である(「沖縄県擁護課資料」による)。また靖国神社が「英霊」として祀地の一般住民50万人とされる。外地で死亡した民間の日本人は30万人という。さらに文字通り無数のアジアの戦争犠牲者が中国大陸に、太平洋の島嶼にいる。ここには一桁の数字まで数えられた死者と、数えられない死者とがいる。数えられた死者とは靖国に祀られる死者である。数えられない死者とは祀られない死者である。死者がみずから靖国に赴くのではない。死者を選別し、数え上げ、祀るのは国家である。1945年までは帝国の陸海軍省が死者を選別するのは生者である。選別された死者を祀るのは国家である。生きつづける国家が死者を選別し、死者をまた見捨てるのである。もし私たちがこの死者を選別する国家のあり方を変えようとするのなら、この見捨てられた死者の側に立たねばならない。」ー沖縄と祀られない死者、'戦後日本論ー沖縄から見る'、子安「帝国か民主か」より