第一回講義をきくと、Harveyの読みは・・・

第一回講義のHarveyの読みは、ポスト構造主義の「資本論」といってもいいと思いました。「価値は資本主義生産において固有である」でいわれる「固有」の意味が批判的に解体されています。ちなみに有名な柄谷行人マルクスその可能性の中心」は、ポスト構造主義の「資本論」の読みに属しました。柄谷は宇野経済学の視点から語った「交換」の強調によって、「固有」という声の表象の存在論的秩序を、Harveyとは違うやり方で脱構築しました。そこでテクストがいう(思考不可能な)「偶然性」の意味が新たに問われました。そうして、(シュールレアリスムの表現のなかにおいてみることができるような)、(思考不可能な)互いに結びつなかなかった二つの系列が関係づけられ、さらにそこに(思考不可能な)別の関係が絶えず介入してくるという、Harveyでは資本主義的生産と(後期資本主義「近代」の人間の)思考の間の関係が語られるところに、柄谷においては、交換に顕著な非対称性と思考の関係が語られていました。ところがグローバル資本主義が台頭する90年代を契機に、柄谷の解決をいうナレーションは、逆の方向へ。かれのポスト構造主義の「資本論」の読みが、「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」のヘーゲル的再語りの全体化によって贖われていくのです。後期資本主義「脱近代」の(全体との関係にたいする)表象の非対称性・不確定性が問題だったところに、19世紀的資本主義「近代」の表象の秩序の言説を再び語り出すのです。これに関して、ギリシャの危機を前に、ピケットやチョムスキーが活発に民主主義の危機を訴えています。日本知識人が沈黙しているのは柄谷的に考えるようになったから?(もっぱら経済問題は経済問題という次元の見方ばかりですが、これも実は政治的な態度です)。世界史的必然としての、第四<帝国>としてのEUに委ねておけばそのうち災難は過ぎ去るだろうとでも心の中で思っているとしたら、隠遁の事なかれ主義というか・・・