「資本論」がわれわれにとってすでに存在していたことの意味は何か ?

考えておかなければいけないことは、「資本論」がわれわれにとってすでに存在していたことの意味は何かという点ですね。労働者の階級的貧困化の必然性をいう歴史概念は、(たとえば河上筆の訳した)「資本論」の後に現れました。本質的な仕方で、このような歴史概念は「資本論」を前提としているのです。資本主義を、われわれの存在を規定する統御不可能なものと解釈するだけでは足りず、(そういう教説的な解釈に対抗して) 自らの領域をまもり自らを純化していくという権威的言説とその称賛が登場してくる事情がここにあるのかもしれません。もっというと、マルクスの前に「資本論」は別の名ですでに存在していました。ヘーゲルの「精神現象学」です。ですから、正しく言えば、潔癖な純化の純化が起きちゃっているんですね。だから今日、池田信夫みたいな安倍擁護の極右が「資本論」を読めとおせっかいに勧めていますし、(資本主義をコントロールできると考える)われわれ左翼の方は「資本論」なんか読んでたまるかといっておりますが(爆)。この本(「資本の謎」)のなかででしたか、たしかハーヴェイもその種の純化にたいしては疑問を投げかけていたと記憶してます。