ジョイスのどこにも属するのにどこの部分になることがないという反時代的精神の欲望 - 「どうせ説明してもわからない」・・・ホント?

「どうせ説明してもわからない」・・・ホント?

私の場合、「どうせ説明してもわからないだろう」と答えそうになる問いに、「ジョイスはトリエステという自分で決めた亡命の地にて、ダブリンのことしか書かなかったのはなぜか?」という問いがあります。ジョイスは彼自身の中で亡命の事件性を反復させたかった。と、この説明でなにかを説明したことになるのかについては自信がありません。ここで「どうせ説明してもわからない」部分をなんとか克服しようとすると、やはりジョイスが書いた英語に沿って考えるしかないと思い始めます。が、最終的にそれでは日本語で説明できなくなるにきまっています。英語の領域の内部からその内部に沿って考えていては、英語の領域の外部(日本語)に出ることは不可能ですから。英語にやっつけられてしまう、というか、英語の奴隷になってしまうというか。「ユリシーズ」を<外国人の頭で読むこと>と<日本語で読むこと>の距離にこそ、思考の注釈学的自由があるというのに、「どうせ説明してもわからないだろう」という挫折の言葉では情けないですね。ただ言っておこうと思うのは、オペラ歌手が歌うように外国語で自由に語るといういつまでたっても実現しない不自由な欲望にジョイスは絡み取られていたということ、かえってそのことがジョイスにとっては人間のどんな領域から自立したいとする文学的本質を表現する上で欠かせないと思っていたということ。「ユリシーズ」というと、ギリシャ神話と聖書のパロディ的言及ですが、オペラへの言及も作家のオブセッションとして漂っていますージョイスのどこにも属するのにどこの部分になることがないという反時代的精神の欲望