靖国神社の肖像画は可能か

靖国神社」の肖像画はいかにして可能なのか

 骸骨の死神のダンスからなにを学ぶのか?「古代」の大地の姿でコスプレしているだけの靖国神社と呼ばれてきた、この顕彰施設が、明治の近代から生まれたという意味で、近代の産物だということではないでしょうか。その上で、近代を可視化することはできるか、靖国神社の肖像画は可能なのか、と、私は自身に問おうとしています。つまり靖国神社靖国言説の内部から内部に沿って自己の姿を描き出せるかという問題を考えようとしています。これは、言い換えると、近代は近代の内部から内部に沿って自己の姿を可視化できるかという問題と等価です。もし近代が近代の内部から内部に沿って自己の姿を描くときは、(しかも隙間なく自己完結的に完全に描き切ってしまうのでれば) 絵の前面に、想像上の風景(古代に起源をもつ靖国神社の姿)を描くが、しかし絵の背景にあらわれるはずの、われわれが見なければならない、近代国家の戦争推進者としてのリアルな痕跡を消し去ってしまうという危険があるのです。
洪成潭さんの作品についてかんがえるとき、アーチストの批評精神はいかに、この近代の抑圧的隠蔽に抵抗するか、いかなる外部に立つのかという言説の位置と表現の多様性が問われているとおもいます。靖国問題は清算済みの過去の問題ではなく、それどころか現在ネオリベの新植民地主義が復活している中で、現在のA級戦犯合祀の靖国に首相が公式参拝するという問題がでてきました。もはやこれは日本の人びとだけでは解決できぬ問題としたら、他者の方向から東アジアの人びとと共にいかに、靖国の精神の植民地主義から自立していくのか。靖国問題の意味を問うとき、原発の新安全神話の問題だけではなく、沖縄の基地の問題も必ず一緒に現れてくるものであります。目下学校教育に押しつけられてしまった実践としての国民道徳の復活の問題との関係と共に考えなければ・・・