子安'中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか'を読む

No.19 琉球・沖縄の<海の視点>

問題提起; 沖縄はどのようにして、その将来についても、われわれに語られうるものとなったのか。ここで<海の視点>が導入される。この視点から、「琉球・沖縄の歴史空間は、「日本」の中に収まり切れない広がりと独自の準則をもっていたこと」が明らかに。その琉球・沖縄の歴史空間は、「海の歴史空間」であり、<冊封体制>をもって中国との関に臣従関係と儀礼的秩序とをもってきた周辺諸国・諸地域は、<朝貢関係>という中国との交通・貿易関係をも構成してきたのである。それは琉球王朝が構成してきたこの<朝貢関係>的な歴史空間といってもよい。琉球・沖縄の<海の視点>は、琉球の国家化の問題を隠蔽してきたモダニズムの言説を批判する。と同時に、琉球・沖縄の<海の視点>は、再び国家の代わりに語る汪輝の<中華的世界>のポストコロニアリズム的言説を批判的に差異化する視点となることが示唆される。(本多)

以下、第三章 琉球と「海の歴史空間」、中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか。子安「帝国か民主か」より引用...
「戦後日本知識人による沖縄の論じ方を批判していた浜下は沖縄を積極的に語り、「沖縄入門」という本さえ書いている。では沖縄はどのようにして、その将来についても彼に語りうるものとなったのか。彼は」琉球」が「沖縄」になること、すなわち琉球の日本国家化をめぐってこう書いている。
「日本が琉球処分によって琉球沖縄県とし、日本の一部に組み替えたことによって、琉球はその歴史的な海洋ネットワークの拡がりから内陸的な一つの県の位置に再編成されることになった。これは日本が国家形成の中で琉球をその中に取り込んだことを意味すると同時に、琉球が歴史的拡がりを閉じることによって、日本の国家化を支えたともみることができりであろう。」
琉球が日本になり、沖縄県になることは、琉球がもっていた国際的な拡がりを失うことを意味した。それは那覇港がもっていた国際的な開港場としての性格を失わせ、日本の開港場を本土の長崎に集中させることを意味したのである。すなわち「琉球が持っている海洋の拡がりを消去し、日本の吸収する必要があった。あるいは海洋の拡がりを国家化する必要があったと言えよう。日本の開国は沖縄の鎖国であった。」のだと浜下はいうのである。琉球の日本化、沖縄化が何を意味するのかをめぐるこの浜下の記述は重要である。「琉球・沖縄の歴史空間は、「日本」の中に収まり切れない広がりと独自の準則をもっていた」ことを知るものにしてはじめて沖縄の現在と将来に向けての積極的な発言をもなしうることを私に教えている。沖縄が開かれた東アジア空間においてもつべき位置を知ることは、同じく日本が東アジアでもつべき位置を知ることでもあるだろう。この沖縄認識は<開かれた海域>としての<東アジア世界>の認識と相関的であるからである。
琉球・沖縄の歴史空間は、「日本」の中に収まり切れない広がりと独自の準則を持っていた」と浜下がいう歴史空間とは、中国との<朝貢関係>からなる海洋的王国琉球の歴史空間である。「中国と朝貢関係を結び、またその関係に倣って
自らの周辺地域との関係を形作った。儀礼や宗教、権威や成徳を中心とした宗主ー藩属関係には、海という空間がその地域間関係の形成に大きな役割を果たしていた」と浜下は書いている。<冊封体制>をもって中国との関に臣従関係と儀礼的秩序とをもってきた周辺諸国・諸地域は、<朝貢関係>という中国との交通・貿易関係をも構成してきたのである。琉球王朝が構成してきたこの<朝貢関係>的な歴史空間を浜下は「海の歴史空間」として特色づけているのである。
<海の視点>から見るとき、琉球の<朝貢関係>的歴史空間は「多地域・多文化・多民族の交流と交渉」からなる開かれた海洋空間として見出されてくる。ここから浜下は、「海を重要な歴史主体として持つ東アジアが、多民族・多文化・多地域によって構成されているあるひとつの政体であることを意味している」と重要な指摘をしている。この海洋空間としての<東アジア>の構成は、浜下の<朝貢関係>論にしたがって再構成される汪輝の<中華的世界>を批判的に差異化する上できわめて重要である。」

 

No.20 弱腰となってしまったと批判を受けているとはいえ、まだ世界中の左翼知識人が読むといわれる、1970年以来反権威・反権力の言説の前線をになってきた「ニューレフト・レビュー」誌に、中共党のイデオログである汪輝氏の饒舌な英語で書いた論文を初めて読んだときは、毛沢東の中国の成り立ちというものを宋の時代まで遡って語る、(彼の言葉ではないが)、現在の<帝国>中国の独自な「近代」を正当化していく、彼一流のネオリベ的ポストコロニアリズムのかくも体制現状的立ち位置(天安門事件前の民主化運動を非難している)に、大きな違和感を覚えた。(但し中共党は民衆から毛沢東が復活することを一番怖れているから話は単純ではない。) ちなみにポストコロニアリズム論客のアイルランドエスタブリッシュメントの政治を擁護する復古主義的言説を読むときに覚えるような同じ違和感。しかし厄介なことに、反発しようとすると、物理的に体が痛くなってくる呪縛?反論をゆるさないほどの体系性をもった知の配置とは常に、こんな風に身体を縛る力をもつのか、わからない。これからの「「沖縄」を...語ること」の子安氏の論考は、汪輝批判をテーマとしたものへと大きく展開する。これを読むと、(どちらがどちらを利用しているのか定かではないのだが)、一応、汪輝の認識に依る?という柄谷が展開する<帝国の構造>の問題の全体がよくみえてくる。(ただし柄谷の思想は、他に選択がないという仕方で、考える主体の存在を規定してくるような、とくにヨーロッパの知である「資本論」を読む日本知識人が囚われてきた、思想の純化へ身を委ねる全体主義的幻想、に深く関係しているのではないかと私はおもう。) 子安氏の柄谷批判の方は章を改めて紹介することにしたい。ここでは、だれが名づけるのか、そのことによってなにが実体化され所有の対象となるのかという政治の暴力について語られる。

以下、第三章 民主の「冷戦化」、中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか。子安「帝国か民主か」より引用

汪輝が「琉球」をいかに語るり出すかを見る前に、そこにある<気になる記述>について触れておきたい。彼は沖縄を論じるにあたって終始「琉球」の呼称をもってしている。それが中国からする沖縄の呼称だとしても「琉球」をもって沖縄を論じきってしまった論文を現代日本人に提示すること自体に中華主義的な独善となり、挑発を私などは見てしまう。しかし私が<気になる記述>というのはそのことではない。汪輝は琉球を論じるのに、その背後に台湾を置いている。地理的にいっても、歴史的にいっても、さらに政治的にいっても両者が離しがたい関係にあることは理解できる。だが私が気になるというのは台湾の民主化運動をめぐる汪輝のとらえ方である。...
「台湾の民主化運動は内容が多重であり、複雑に構成されていたため一概に論じることはできないが、その主流ーとりわけエリート層の民主化運動ーは、冷戦時代におけるアメリカのイデオロギーの影響を深く受けていた。・・・民主化の問題と、日に強まる中国大陸への敵意とを接続させたことこそ、台湾独立運動における一つの主要な特徴を構成した。」
このアメリカ的イデオロギーに影響された民主化運動を汪輝は「民主の、”冷戦下'」と呼び、この陰影を台湾の民主化運動だけではない、1989年以来の中国知識人の言説や民主化運動の中にも見ているのである。民主化運動におけるこの陰影を「"アメリカ性"として概括するのは、大体において正しい」と汪輝はいっている。この言葉は冷戦時のものではない、2009年のものである。汪輝が中共党=政府によって<動乱>として鎮圧された1989年の学生・市民の運動に対して全く否定的であることにつては、私はすでに前章(「なぜこの中国の自己認識は問われるのか」)にふれた。しかしここで台湾の民主化運動を、中国の民主化運動とともに冷戦時のイデオロギーをもってしか見ることのできない汪輝の、まさしく<党派的>なイデオロギー的硬直に私は驚くというよりはむしろ怒りを覚える。汪輝が敵対視しているのは中国における民主化運動であり、台湾の民主化運動であり、そしてそれらに連帯するわれわれ日本の市民運動であるだろう。
汪輝が台湾や中国の民主化運動における'アメリカ性'を批判的に指摘することとは対照的に、彼が沖縄の社会運動に見るのは'反アメリカ性'である。
「これとは対照的に、琉球の社会運動は、中国社会主義に対する想像を終始保ち続けている。・・・こうした想像自身に、冷戦構造における琉球の社会運動の"反アメリカ性'が現れている。これが私の第一印象であり、また私の言う「琉球という視野」の重要性に関する根拠の一つなのである・」
沖縄の社会運動が汪輝にとって重要な「琉球とい視野」を彼に構成せしめることの根拠はその<反米性>にあるというのは、中国の<党派的>思想家汪輝にとって当然なことだろう。だが<反米的>な沖縄は彼の「琉球という視野」を構成しても、彼に「琉球論」を語り出させる理論的動機をなすものではない。沖縄は歴史的「琉球」であることによって、すなわち<朝貢関係>的歴史すなわち<中華的世界>を構成する「琉球王国」であることによってはじめて中国から構成される論説「琉球論」の主題となるのだ。沖縄とはあくまで「琉球」であり、「琉球」としてはじめて彼に語られるのだ。

 

No.21 <朝貢関係>的システムをめぐる視差

多様性をいうものは一的多様体をいう。しかし一的多様体は、<一>的多様体として、<一>に還元されていくものでしかないとしたら無意味だろう。多様性をいう言説の意味は言説の内部からは明らかになることはない。多様性をいう言説がそれをいう主体にどのような意味を触発するかという点が重要となるのである。そのとき主体がどこから語るのかが大きなポイントである。「琉球から沖縄への変化をどこから、どのように語るのか。浜下は海洋的<東アジア世界>を構成する<朝貢関係>の中の一王国琉球から語っている。汪輝は中華帝国とともに古く、長く<普遍的規則>として<朝貢関係>的な国家間・政治体間関係を維持してきた<中華帝国的世界>から語っている。浜下も汪輝も同じく<朝貢関係>的琉球王国を歴史的前提としながらも、琉球から沖縄への変化を語る二人の語りは全く違う」。「海洋ネットワークの広がり」と浜下がいうものは、多重、多層、多様なネットワークのことであるが、この浜下と汪輝の相違、多様性(「海洋ネットワークの広がり」)と<一>的多様体(<中華帝...国的世界>)の相違が明らかにされる。

以下、第四章 <朝貢関係>的システム、中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか。子安「帝国か民主か」より引用

浜下は琉球の沖縄化を、琉球がもっていた「海洋ネットワークの拡がり」を失って「内陸的な一つの県の位置」に再編成されることとして語った。琉球がもっていた「海洋ネットワーク」とは、琉球の<朝貢関係>という多重、多層、多様な交易関係を構成するものであった。では浜下から学び取った<朝貢関係>は、汪輝の「琉球論」ではどのような意味をもって再構成されるのか。汪輝は、浜下が「海洋ネットワーク」の喪失をいう琉球の沖縄化の過程をこう言っている。...
「日本の琉球への植民及び、1874年に台湾に対して行われた最初の攻撃(いわゆる台湾出兵事件)は、アジア地域で長きにわたり有効であった一連の関係と相互作用の法則に重大な変化が発生していたことを意味していた。この変化は一つの王朝が一つの王朝を併合する過程であったばかりでなく、中国と日本という両国間の勢力消長の産物でもあり、しかも普遍的規則の突然変化でもあった。」
琉球から沖縄への変化をどこから、どのように語るのか。浜下は海洋的<東アジア世界>を構成する<朝貢関係>の中の一王国琉球から語っている。汪輝は中華帝国とともに古く、長く<普遍的規則>として<朝貢関係>的な国家間・政治体間関係を維持してきた<中華帝国的世界>から語っている。浜下も汪輝も同じく<朝貢関係>的琉球王国を歴史的前提としながらも、琉球から沖縄への変化を語る二人の語りは全く違う。<朝貢関係>的琉球王国の歴史的参照は、浜下にとって海洋的な交通世界としての<東アジア世界>に琉球・沖縄を開いていくことを意味していた。だが汪輝にとって<朝貢関係>的琉球王国の歴史的参照とは、何を意味するのか。
汪輝は日本による琉球の沖縄化は「普遍的規則の突然の変化」を意味するといっていた。では「普遍的規則」とは何か。汪輝は前の引用に続けて、「日本の朝鮮侵入、日清戦争(中国では中日甲午戦争)、日露戦争、及び「大東亜戦争」と太平洋戦争はまさに、この普遍的規則の突然変化が順を追って現れたものであった。初期のヨーロッパ国際法とはその実、帝国主義国際法であり、日本はこの規則を用いてヨーロッパ帝国主義の行列に身を置こうと躍起になっていた」といっている。帝国主義的な領有なり、植民地的従属化を認知するものとしての「ヨーロッパ的国際法」的秩序への日本の参入を、「普遍的規則の突然の変化」と汪輝はいうのである。とすればこの「普遍的規則」とは、前近代の非ヨーロッパ的<東アジア世界>、歴史的正確さをもっていえば<中華帝国的世界>の国家間・地域間関係を支配していた規則、すなわち<冊封体制>的規則あるいは<朝貢関係>的規則を指しているとみなされる。
東アジアの前近代的世界における<中華帝国的世界>の規則はいま汪輝によって失われたアジア世界の「普遍的規則」として回想されるのである。汪輝が歴史的「琉球」を参照することによって回想されるのは、近代日本の成立とともに失われた<中華帝国的世界>の「普遍的規則」すなわち<朝貢関係>的な国家間関係である。

 

No.22 執筆中

以下、第五章 回想される<朝貢関係>的システム、中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか。子安「帝国か民主か」より引用

近代日本の主権下の「沖縄」から、前近代の<冊封体制朝貢関係>下の「琉球」は汪輝によってどのように回想されるのか。汪輝は歴史的琉球ブータンやシッキムなどと同様の小政治体としてこいういうのである。...
「こうした小政治体はそれまでなぜ、いくつかの大きな政治体の間に存在することができたのだろうか。そしてそれらの小政治体はなぜ、いくつかの大きな政治体の一部分にならずにすんだのだろうか。さらに民族国家(ネーション・ステート)の時代に入るとこれらの小型王朝はなぜ、民族国家の特定の区域に少しづつ変化していったのだろうか。小さな政治共同体の相対的独立を提供しえたのは、いかなる文化や政治、制度の弾力性であったのだろうか。さらに、最終的に主権の名義を以って、これらの共同体を形式主義的主権概念の内に収容して改編してしまったのは如何なる文化や政治、そして形式化された制度であったのだろうか。」

浜下は日本の近代国家形成の中に琉球が取り込まれていくことによって、琉球が歴史的にもっていた国際的な拡がりを閉ざされざるをえなかったといった。浜下のこの歴史的回想が見出しているのは、「自らのなかに多元的な原則、あるいは複数のかかわりを併存させること」によって、東アジアにおける海洋交通の中継点として独自の役割を果たしてきた歴史的琉球の存立意義であった。だが汪輝の近代国家日本の主権下に沖縄として収容された琉球をめぐる歴史的回想が導くのは、琉球王国のような「小さな主権国家」にもそれなりの独立性をもってその存立を承認してきた東アジアの<朝貢関係>的な政治体間システムである。この<朝貢貿易>的システムとは<中華帝国>的統治システムであることを汪輝はほとんどいわない。この<朝貢関係>システムは、近代の厳しい内外区分に立った主権的国家間関係や強力な主権国家への弱小政治体の従属的関係への<反近代>的批判をともないながら、よりましな政治体間関係として理念化されるのである。

「アジア地区、とりわけ中国周辺において、朝貢システムの範疇に最近よく帰納されている政治体間の相互関係は、民族国家同士の関係とは完全に異なるものであった。朝貢関係の中にも内と外の概念があったが、主権概念下のそれ、すなわち境界及び境界内の行政管轄権などの概念が画定する内外関係とは同じではなかった。・・・主権原則に照らせば、内と外との厳格な境界設定によって、独立と統一という絶対的な対立が生まれ、その間に曖昧な地帯はない。しかるに朝貢関係は、親疎遠近の関係、つまり参与者の実践が相対的に弾力性を持って展開する関係のように思われる。このため朝貢関係は、主権国家の意義における内外関係とは全く異なる」

近代の主権国家間の内外関係の厳格さに対して<朝貢関係>がもつ内外関係の弾力性がこのように想起される。この汪輝における<朝貢関係>という政治体間の弾力的関係性のモデルは、「民族主義(ナショナリズム)のモデルがなぜかくも強烈に、内部の統一性や単一性、そしてはっきりとした内と外の関係を要求するのかについて」の追求が、歴史から呼び出すようにして構成していったもうひとつの政治体間の関係性のモデルである。」

「これは内と外の厳格な分け隔てがなく、それと同時にまた多重の差異を包含している制度形態と関係モデルであると言うことができよう。ただ、この多元的な法律政治の制度もやはり一種の統治と支配の制度であって、この多元的な政治条件の下、各種各様の支配や戦争をもたらしたこともある。しかし、多様性と統一性を持った弾力性に富むその関係については、我々があらためて思考するに値するものであろう。」

引用によってする論証はもうこれでやめよう。すでに明らかだろう。歴史的「琉球」の参照が汪輝にもたらすものが何であるかは。それは琉球をもその内にもった<朝貢関係>という「多様性と統一性を持った弾力性に富む」<中華帝国>的統治システムである。汪輝はしかし<朝貢関係>とは中華主義的<帝国>の統治システムであることを曖昧にし、むしろ隠ぺいして<朝貢関係>を近代の主権主義的国家間関係に対するもう一つの、よりましな国家間あるいは政治共同体間関係モデルとして提示していこうとするのである。この<中華帝国>的政治性を内に隠した欺瞞の国家間関係モデルがいま沖縄・琉球に対してだけではない、台湾に対しても、日本に対しても、いや<東アジア世界>に対しても提示されているのである。

 

No.23 執筆中

以下、第六章 <東アジア世界>像の挑戦的提示、中国と<帝国>的視野ー琉球をなぜ語るのか。子安「帝国か民主か」より引用

汪輝は香港を例にとりながらこう言っている。「香港は中国の一部であるが、国際的な法律主権の意味において、国際組織に加入する権利が香港にはあり、大陸とは異なるパスポートと独立したビザのシステムを有している。この情況は中国の朝貢関係内部の権力構造に近い。「一国二制度」は一つの可能性に過ぎず、これはまた主権体系内部における一種の総合と発展でもある。しかしそれは異なる情況に基づき、異なる関係モデルを構想する可能性を提示しているのである」と。...
もうやめると言いながらまた引用してしまったが、しかしこの引用は、汪輝において<朝貢関係>的モデルが、政治的、社会的体制を異にし、文化・習俗をも異にする周辺諸領域、周辺的諸政治体と中国との弾力性をもった一体的統合を可能にする関係的モデルとして歴史から呼び出されていることを明らかにしている。
だが汪輝のいう<朝貢関係>的モデルによる<中華帝国>的統合とは、中共党の一元的支配による全体主義的政治社会体制をもった経済大国中国への統合でしかない。この統合が何であるかは、チベットウイグルの苦難の実状が教えているし、「一国二制度」がいわれる香港の現状は台湾の人びとに明日の自分たちの姿を予見させている。この春の大規模な<民主的台湾>のための運動は、香港の現状に台湾の将来が重なることを拒もうとした学生・市民の民主的決起でもあったのである。われわれはこの<朝貢関係>的モデルの提示に欺かれることはないとィ言いうるかもしれない。だが「なぜ伝統的な政治関係や結合モデルにおける、文化や政治、その他習俗の多様性に対する容認度は現代世界のそれよりも高いのだろうか」といった問いかけとともに汪輝が提示する<朝貢関係>的な関係性をもった<東アジア>像はわれわれにとって挑発であり、挑戦でもあるだろう。それは浜下が歴史的な「琉球」からわれわれに読み開いていった多重・多層・多元的な海洋的交易空間としての<東アジア的世界>を、一体的な<中華帝国>的世界に多元性の相互承認的空間として包摂してしまおうとする挑戦的な<東アジア>像の新たな提示であるからである。浜下の<朝貢関係>論の汪輝における剽窃的盗用がもつ犯罪的意味はこの点にある。