プルーストとジョイス

Le point sur l'i de Gilberte était monté au-dessus faire point de suspension. Quant à son G, il vait l'air d'un A gothique.

ー Albertine disparue, Proust 'À la recherche du temps perdu '

プルーストは小説の中で、愛人アルバティーンAlbertineの綴り字を利用して遊んだ。いわゆる言葉遊び。ここでは、iとG、文字について思いをめぐらせている。ところで中世職人が活躍したゴシックの時代では、肉体とか魂の永遠とは別に、死すべきもの(人間)の手による不死のもの(神の如き永遠に朽ち果てない芸術)が制作された。(彼が宿泊したホテルがあるカブールに行くとゴシックの建物を見物できる。) 感化された、プルーストによるゴシック芸術の再構成とは、位相的に、自己自身に還っていく曲線に表現される、包摂から逃れていく自己差異化の遊びである。しかし‘アルバティーンの消失'という言葉から読者に示唆されるように、プルーストにとって、死すべきものは不死のものを制作することは不可能である。近代においては芸術のどんな記号も消費の回路の中に使用されしまう結果、朽ち果てる運命を避けることができないから。作家は反ロマン主義的。iとGをまえに、フロイトの筆跡を分析するように唯物論的でさえある・・・

言わなくてもいいのだがやはり言わなくてはならないとおもうような厄介な話を書いておくと、ナウシカ挿話のロケーションとなっている、(現存している)「海の星教会」の前にたつと、入り江がU字と似ていることがわかる。このUの文字は、Ulyseesの「U」を意味していたとしたら、(入江の) U字型の底辺に位置していたブルームは何であったか?U字が子宮の形をしているのでブルームが精子だったとする説がある。ポストコロニアル的な語り口は、それは豊穣の徴である。だがオール・アイルランドを敵となったジョイスならば、これ限りの話であるはずがない。<汚れ無きもの>(聖歌隊の少女たち)が<汚れたもの>(ユダヤアイリッシュのブルーム)によって汚れていくというような、アイルランドナショナリズムが依る神話の構造とパターンを滑稽なものとして嘲笑ったのであろう。抑圧された<汚れなきもの>、民族の悲哀の運命という観念はそもそも、イギリス上流階級の価値観(反ブルジョア的)の根底にあったものだったからである。ジョイスはナウシカ挿話をポスト・ビクトリア朝(1910年代)の上流階級の文体で書いている。ナショナリズムが、自身の「敵」の言説からいかに依存しているかという、いかにも痛烈なアイロニーが「ユリシーズ」に容赦なく記されている。真実を言う危険な作家は亡命せざるを得ない。'I...AM A.' Cuckoo.