安倍談話について ー なにがほんとうの問題なのか?ーアジアへの共感を全く持たぬ歴史修正主義者の安倍晋三はただ中国に対する日米同盟を軸にした対抗的<帝国>の構築をしかかんがえようとはしない

 「侵略はなかった」と安倍は自分の考え通りに語ると大変な問題が起きますが、平気でいくらでも嘘をいえるこの彼が「侵略はなかった」とは反対のことを言うとしたらまさにこの嘘によって同様に深刻な問題が起きてくることになるでしょう。そもそもの問題は、人間的なものの内部(一部)でしかないもの (差別、排他、抑圧、支配、侵略)を、人間的なものの全体にかかわらせることにあります。差別、排他、抑圧、支配、侵略の伝統と手を切った、そしてまた軍事、戦争、暴力、それら一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否する、市民どうしー中国の市民と日本の市民ーの話し合いの時代。共に人間的なものの全体に生きる方向へと。いくら無理にみえても、しかし、現在、このような市民どうしの話し合いがなければおたがいにもうやっていけなくなってきたというギリギリのところまできたのではないでしょうか。

 

参考のために、子安氏の「帝国か民主か」(社会評論社) のまえがきを紹介したいとおもいます。

なぜ「でもくらてぃあ」なのか

小田実は1995年の阪神淡路大震災被災体験と被災者の救助と援護活動を通じて、彼の民に立つ(デモクラシー)立場をいっそう深化させていった。小田はその立場を平仮名書きで「でもくらてぃあ」といった。「でもくらてぃあ」とは何か。なぜ彼は平仮名で「でもくらてぃあ」というのか。そしてなぜいま「でもくらてぃあ」なのか。
小田は古代アテネの市民国家における「デモス」という言葉から考える。「デモス」とは「住民自治区」とその地区の「住民」を意味するとともに、市民国家の「民」を意味していた。すなわち毎日のようぬアゴラ(集会広場)に来てはワイワイガヤガヤと意見を交わすような「民」を意味していたと小田はいうのである。ちなみに小田のいう言葉はつねにこの「ワイワイガヤガヤ」の再生の趣をもっている。「デモス」が「地区住民」であるとともに一般的な「民」であるとは、こういうことだと小田はいう。
「それこそ毎日「アゴラ」へ来てワイワイガヤガヤやっていた。あるいはウロウロウヨウヨしていた。そして、おたがいの素性もよく知らぬままに「アゴラ」の近くのプニュクスの丘なる大衆集会の場に駆け上がって、宣戦布告して戦争するや否やの自らの死活にかかわる問題の決定にまで参加していた「民」としての「デモス」でもあったことです。」
「デモス」が「住民自治区」あるいはその「住民」と、「民」との両義をもちながら、しかし「民」に国家の最高の決定権を置いたことこそ、「市民国家」が「住民国家」ではなく、まさしく「市民の国家」でありえた最大の理由があると小田はいうのである。小田はここで「住民国家」を「町内会国家」と比喩的にいいかえているのが面白い。わが日本には戦前・戦中からダラダラと持ち越してしまった「町内会」という一番下の住民組織がある。この町内会から住民の要求を町村(議会・議員)へ、そして県(議会・議員)へ、さらに国(国会・代議士)へと汲み上げ、積み上げていく陳情システムがあたかも民主主義的な<下意上達>の手続きであるように思われている。しかしこの下からの積み上げ的な陳情はつねに政府・官僚による<下意上達>が<上意下意>でしかない<民主的手続き的国家>を小田は「住民国家」といい「町内会国家」と揶揄するのである。ポリスが「住民国家」ではなく「市民国家」であるためには「民」が「住民」であることを超えて、国家の最高の決定をなしうる力(クラトス)をもつものにならねばならない。その力をもった「民」が「市民」であり、その「市民」によって「市民国家」ははじめて成立すると小田はいうのである。「デモクラティア」とはこの「市民国家」を形成する<民の力>からなるポリスの政治原理をいうのである。小田はこの「デモクラティア」からわれわれ現代社会のあるべき政治原理「でもくらてぃあ」を導くに当たって、これを再定義している。
「私たち人間にとってもっとも必要なことは、政治をできるかぎり人間的なものにすることです。べつの言い方で言えば、政治を「人間の基本(ヒューマン・ファンダメンタルズ}」にできるかぎり即したものにする、この「人間の基本」にもっとも即した政治原理、そして、実際のありよう、かたちが、私は「でもくらてぃあ」だと考えています。」
ではなぜ「デモクラティア」ではなく平仮名の「でもくらてぃあ」なのか。小田は、「私の考える「でもくらてぃあ」はそうした古代アテナイの、あるいは、古代アテナイ以来の「デモクラティア」、差別、排他、抑圧、支配、侵略の「伝統」と手を切った、そしてまた、軍事、戦争、暴力、それら一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否することに基本を定めた「でもくらてぃあ」です。その根本的なちがいを確認しておく意味で「デモクラティア」と片仮名で書くのではなく平仮名で「でもくらてぃあ」と書くことにしたのです」という。
私はこの小田の「でもくらてぃあ」という<民=人>の生きる要求の直接性に立ち、この原点的要求の直接性を議会主義的に喪失させない市民運動とその原理に、幸徳秋水アナーキズム的「直接行動論」の最善の形での再生を見ている。
私は昨年(2014年)本書を構成する「中国問題」をめぐる諸論を市民講座で半年にわたって語った後、市民講座のテーマを「<大正>を読む」に変えていった。私は<大正>を読み直すことによって<昭和>を、そして<戦後>を読み直すことを考えたからである、私はこの読み直し作業を<大逆事件>から始めた。この<大逆事件>の読み直しは、この国家による幸徳らの社会主義思想の扼殺とともに、その思想の生命的基盤というべき「直接行動論」も殺され、われわれの間から失われてしまったのではないかという思いを私に生じさせた。高徳の「直接行動論」とは、労働者民衆の「パンの要求」の直接性に立ち、議会主義的政治過程に委ねることなく、自律的な運動にそれをもち続けていこうとする労働運動の戦術論であり、思想的な戦略論でもあった。<大逆事件>はこの「直接行動論」を<大逆罪>を構成する無政府主義者の謀叛行動として扼殺したのである。そして社会主義運動の内部からもそれは消され、失われていったのである。日本の社会主義運動と反体制運動はアナーキズムという非権力的で、反議会主義、反政治主義的ま自律的な民衆・市民運動という思想原理を失ったのである。
党派性や機関主義的組織性を否定して、市民個々人の自律性にもとづく、自由で自律的な運動を戦後日本に実現させていったのは小田実のべ平連であった。その小田は戦争で<難死>を強いられた<民>に、大震災における<棄民>を重ねながら、この<民>の憤りを小田は「直接行動論」的なデモクラシー、すなわち「でもくらてぃあ」という<民>の運動原理に表現していったのである。この「でもくらてぃあ」は<民>の要求が議会主義的な政治過程に解消されることを拒絶する。それはまた<民>の運動が国家主義民族主義的なものへの変身をも拒絶する。それはむしろ国家をこえた<民>の連帯を求める運動である。なぜなら「でもくらてぃあ」とは、「古代アテナイ以来の「デモクラティア」、差別、排他、抑圧、支配、侵略の「伝統」と手を切った、そしてまた、軍事、戦争、暴力、それら一切のキナくさい、血なまぐさいものを拒否する」ことに基本を定めた<民>の運動原理であるからだ。ここで小田がいう古代アテナイ以来の「デモクラティア」は、近代の帝国主義的国家、植民地主義的国家の政治体制原理でもあったのである。21世紀の現代においてもそれはグローバルな緊張的対立をする一方の優越的国家群(帝国)の政治的体制原理であり続けているのである。こう考えてくれば、なぜいま「でもくらてぃあ」なのかは、世界と東アジアの現状に正面するものには直ちに理解されるはずである。
私は小田実を「直接行動論」的アナーキズムの21世紀的再生産者として「アナルコ・デモクラテイック」と呼びたいと思っている。小田はこの呼び方に不満だろうか。「オレはオレだ」とあの世彼は吠えているかもしれない。だが小田の「でもくらてぃあ」をいま<民>の要求に直接する「直接行動論」的市民運動の原理としてとらえていくことは、私が本書でしている問いかけへの最良の答えを示唆するものであるだろう。
私が本書でした問いかけは、一つは「自由」や「民主主義」という普遍的価値をもう一度、真に人類的な価値として輝かしていくことはアジアにおいて可能かという問題であった。それは竹内好が「方法としてのアジア」として提起した問題である。もう一つはグローバリズムがあらゆるところで紛争をもたらしながら<帝国>的再編を進めている世界のここ東アジアにおいて、各地市民によってなされる民主的「直接行動」的運動の積極的な連帯と意味づけにかかわる問題である。小田の「でもくらてぃあ」を貴重な示唆として、私は本書の読者とともにこれらの問題を東アジアにおける市民運動の中で考えていきたい。
私がここに引いた小田の「でもくらてぃあ」論は、彼の著書「でもくらてぃあ」の「少し長いあとがき」として書かれたものである。私は小田のこの問いかけへの私の応答を本書の「少し長いまえがき」として書いた。

 

 

アジアへの共感
ーアジアへの共感を全く持たぬ歴史修正主義者の安倍晋三はただ中国に対する日米同盟を軸にした対抗的<帝国>の構築をしかかんがえようとはしない

全体主義を批判したカール・ポッパー Karl Popperの本というと、亡命してきたユダヤ知識人の影響力が残っている、ニューヨークの大学近くの本屋のcriticismの本棚の真ん中に置かれているような本。ロンドンで読むときは「こんなのあたりまえじゃないか」という感じで飽きてどこかに放りやった本でも、ここ東京で読むと目から鱗みたいに一行一行に重みが感じ取られのは、やはりそういうことなんだと今更気がつくのである。とはいえ、このポッパーの論を引いてマルクス主義批判を展開する人には苦手と反発を感じてしまう日本人は少なくなかったと思う。その理由に、竹内好の文から読み取れるような、アジアへの共感があるからだろう。それは、西欧(日本帝国主義を含む)からの収奪に抵抗したと物語られてきた中国共産党への共感であるかもしれない。文革の犠牲者の実態が報じられても中共党の批判を容易に口に出せなかったのであるー天安門前広場の民主化運動の学生に対する弾圧が起きるまで。それと比べると、自分などはそれほどアジアへの共感があるか。考えてみるが、このことの判断は他者が私をどこに帰属するかとみなすかによることで、東ヨーロッパのスラブ系とかイスラエルから来たユダヤ人たちは自然に私の存在に意識が行くのは、ほかならない、私がアジア的存在だったからだろう。(あまりに言われなくなったことだが、イスラエルの人々は半分がヨーロッパで半分がアジアなのだ。) さて歴史修正主義者の安倍晋三はアジアへの共感を全く持たない人という感じがする。「安倍はただ中国に対する日米同盟を軸にした対抗的<帝国>の構築をしかかんがえようとはしない」(子安氏)。彼らは徹底して国家主義者なのだ。とうとうそんな人が出てきてしまった事実に何とも形容できぬ隔たりを感じるし、そういう人物に対する共感が広まっていた事実に絶望していたというのがこの一年間であった。この先世の中がどうなっていくのかが全く読めなくなった。思想、出来事、人々の存在。一日一日の政治的な意味が非常に大事になってきたことだけはたしかだ。

参考; '「あとがき」にかえて、「中国の衝撃」とその後' (子安「帝国か中国か)

溝口雄三が「中国の衝撃」(東大出版会)を出版したのは2004年5月である。「中国の衝撃」とは、中国だけではない。アジアの近代世界史への繰り込みを軍事力をもって強制した「西洋の衝撃 (ウエスタン・インパクト)」に対していわれたものである。「西洋の衝撃」を2004年5月である。「中国の衝撃」をいうことのは歴史家に、この衝撃によって始まったアジアの近代化過程を記述させる。それに対して「中国の衝撃」をいうことは、中国の独自的近代化過程を記述しながら、その大きな歴史的記述としての現代中国の存立によって、既存の西洋中心的な世界史認識の転換を促そうとするのである。ところで溝口の「中国の衝撃」が出た2004年には政治的大国中国は、同時に経済的な大国としても世界に存立しようとしていた。それゆえ溝口の書は、近い時期における超大国中国の出現を予告するものであった。この「中国の衝撃」をわれわれは2012年秋の中国における反日暴動を通じてもろに体験することになった。
私はその12年の11月に、近代日本の中国にかかわりをもった北一輝から竹内好、そして溝口雄三にいたる人びとの「中国論」の解読を「日本人は中国をどう読んだか」(青土社)として出版した。その最終章をなす原稿を書き上げたのがその年の9月22日であった。この最終章「現代中国の歴史的な弁証論(アポロジー)」とは溝口雄三の「方法としての中国」と「中国の衝撃」をめぐるものであった。その結びをなす文章を書き終えたとき、私は普段書くこともない(かく)筆の日付を記した。すなわち「2012年9月23日」(かく)筆」と。そこには2011年今年9月以来「現代思想」誌に連載してきた「中国論を読む」という私の思想史的作業がよくやく終わったという思いが当然あった。だがそれ以上に、溝口の「中国の衝撃」をめぐって最終章を書き終えようとしていたそのときに、われわれは現実に「中国の衝撃」を受けているという暗合に、運命的とでもいいたい重いものを私は感じ取っていたからでもあった。その9月23日の新聞は、<尖閣国有化>という重大な政治的過過の決定をくだした野田首相民主党代表選における大差の再選を伝えるとともに、中国における領土問題をめぐる反日の動きのいっそうの拡大をも伝えていた。
日本政府の<尖閣国有化>に端を発した中国における厳しい反日行動は、一部暴徒化したデモによる日系商業施設などの打ちこわしと掠奪などの暴力行為をも含んで、中国全土の主要都市で展開されていった。この反日的集団行動は9月18日をピークにして、当局の抑制によって鎮静化された。だが鎮静化されたのは、ただ民衆を含んだ反日デモという政治的な集団行動だけであった。むしろ反日の動きは文化分野など多方面に拡大していった。日本のわれわれはこの厳しい反日的集団行動をテレビの画面によって、その成り行きに不安と怖れとを抱きながら見つめていた。だがこの反日デモを見つめているうちに、これはただ単に中国民衆における愛国的意志の自発的な表現といったものではないと思うようになった。ここに見えるのは民衆の愛国的意志というよりは、中国の強い国家的意志であるように思えた。
中国民衆の愛国的意志はその表現過程で暴力化することの予想を、中国当局は当然もっていたはずである。にもかかわらず生じた日系企業や工場の破壊に及んだ大規模な暴動をどう考えたらよいのか。さらに不思議であったのは、あの毛沢東像を掲げたデモ隊のあり方であった。毛沢東像は<愛国無罪>を保証するものとして民衆によって掲げられるものではない。<文革>を思わせる毛沢東像の掲示は、<愛国無罪>というよりは<造反有理>の保証として共産党内分子によってなされたものであったであろう。中国において<愛国運動>としてのみ許されるデモなどの集団的政治行動は、民衆的暴動に転化する危険性をもつことはつねにいわれてきたことだ。さらに毛沢東像を掲げた反日的集団行動が見せたのは、<愛国運動>が党内的権力闘争を思わせる側面をも示しながらも展開されたということであった。ここから、<尖閣問題>を中国共産党内権力闘争の文脈で読もうとする誘惑を生じさせた。中国の政権交代を間近にした時期であることもあって、日本でも党内権力関係が詳細に分析されていったりした。だが私はむしろ今回の中国における反日的集団行動が毛沢東像を国旗とともに正面に掲げながら、一部暴徒化する民衆をも含み込んで、全国的規模で展開されたそのことに、総体としての中国共産党国家政府の<尖閣問題>をめぐる強い国家的意志を感じ取ったのである。それは民衆の暴動化に見るような国内的危機を背景にして、退くことは決して許されない中国の対外的な強い国家意志である、中国は本気であると私は思った。
テレビに映し出された激しい反日デモによってわれわれはすでに「中国の衝撃」を受け取っていた。そのデモを見直し、読み直しながら私はあらためて中国が本気であることを知って、一層強く「中国の衝撃」を感じた。私が受けた衝撃感には、溝口の「中国の衝撃」の読後感が加重されている。私は溝口のこの書によって現代中国の存立を<衝撃>として見直したのだる。溝口がいう「中国の衝撃」とは、アジアと中国の近代史を政治的、軍事的、そして認識論的にも規定してきた「西洋の衝撃」に対していわれるものである。溝口は西洋的基準によらない「中国の独自的近代」の成立を、中国史の内部から読みだそうとした。だが考えてみれば、これは異様な歴史的、思想的作業である。日本の中国学者が現代中国の歴史的アイデンティティを創出するともいえる作業をしているのである。溝口は現代中国を生み出す母胎として前近代的中国を歴史的に再認識していく。この歴史遡行的な中国的母型の再認識作業が<清朝>すなわち<清帝国>を、現代中国の<中華主義的国家>の母型として再発見していくのである。私にとって驚きであり、<衝撃>であったのは、溝口による<清朝>の歴史的再評価であった。

「もっぱら否定的にみられてきた清朝こそは、いいか悪いかは今はさておくとして、ウイグル内蒙古チベットなどを統合または併呑しつつ現在の中国の版図へと拡張した王朝であり、また文学・美術についてももっとも高い水準に到達した、いかにも最後の王朝にふさわしい繁栄を築いた王朝である。そしてこの王朝の遺産こそが、よきにつけ悪しきにつけ近代中国にもっとも直接的に継承されているはずなのである」(溝口「方法としての中国」東大出版会、1989)

これは現代中国における清朝再評価の先駆けをなすような文章である。現代中国ははっきりと清朝の帝国的な国家版図を継承している。この清朝の再評価は<中華民族主義>的国家という帝国的な国家の自己意識を導いていく。<中華民族>とは種族的な民族概念ではない。中華的世界における漢民族を中心にして周辺・辺境の多様な少数民族を包括していく帝国的な政治的、文化的な民族概念である。この<中華民族主義>は現代中国の国家的イデオロギーとして、いまチベットウイグルに対する開発的同化という抑圧的暴力として発動されている。そしてこの中華民族主義的世界は文化的には中華文化圏、あるいは中華文明圏といわれる。ただ中華文明圏といえば朝鮮や日本、そしてヴェトナムをも含んだ環中国的な文明的世界が意味される。<清朝=中華帝国>は周辺諸国を包括する中華文明圏を構成していたのである。だから清朝の再評価的な想起は、中華文明圏をも想起することになるのだ。溝口はいま環太平洋圏、アメリカ圏、EU圏などと連関をもったものとして中華文明圏を想起すべきことを、日本への警告的意味をもこめながらいっているのである。
「もはや旧時代の遺物と思われてきた中華文明としての関係構造が、実はある面では持続していたというのみならず、環中国圏という経済関係構造に再編され、周辺諸国を再び周辺化しはじめちぇいるという仮説的事実に留意すべきである。とくに明治以来、中国経済的・軍事的に圧迫し刺激し続けてきた周辺国・日本ー私は敢えて日本を周辺国として位置づけたいーが、今世紀中、早ければ今世紀半ばまでに、これまでの経済面での如意棒の占有権を喪失しようとしており、日本人が明治以来、百数十年にわたって見てきた中国に対する優越の夢が覚め始めていることに気づくべきである。」(溝口「中国の衝撃」2004)

ここに述らえているのは<中華帝国>的な言語による予言的事態である。私は以上のような文章を2013年11月の「現代思想」特集号「尖閣竹島北方領土ーアジアの地図の描き方」に書いた。それは中国、韓国、そして日本でも政権の交代がなされようとする時期であった。この政権交代によって膠着した日中・日韓の政治関係に何らか打開の道がつけられることが期待された。だがそれ以降日中・日韓の国家間関係はむしろいっそう国家主義的・民族主義的対立の度合いを深めていったようにおもわれる、歴史修正主義者である安倍という政治家は、アジアに本質的なシンパシーをもっていないようにおもわれる。彼はただ中国に対する日米同盟を軸にした対抗的<帝国>の構築をしか考えようとはしていない。「中国の衝撃」のその後の東アジアは、<東アジア>をいうことさえ空々しい緊張と対立の中にある。私はこの溝口による<中華帝国>的予言に<衝撃>を与えた。溝口は現代中国が<清朝>帝国の再来ともいうべき<中華民族主義的国家・中華帝国>として存立しようとしていることをいっちるのだる。これは私にとって<衝撃>でった。その<衝撃>に、中国における<尖閣問題>をめぐって爆発する反日行動がもたらした<衝撃>を私は重ねていった。この二重化された<衝撃>を通じて、私は中国が本気であることを知ったのである。本気であるとは、ただ<尖閣諸島/釣島>の領有を中国が本気で主張していることだけをいうのではない。<中華民族主義的国家>としての国家的な存立に中国は本気であるということである。中国はチベットをめぐる国際的非難にもかかわらず、チベットの抑圧的同化を妥協することなく推し進めている。そしていま中国は<大中華主義的国家>にふさわしい領海と海洋権益とを<核心的利益>として主張しているのである。われわれがしらなければならないことはこのことである。チベットでも、ウイグルでも決して退くことのない中国は、ここでも退くことは決してないだろう。
野田前首相による<尖閣国有化>の決定を重大な政治的な過誤だと私はいった。彼は何を読み間違えたのか。中国が本気であるjことを。これに本気である中国とは、<大中華主義的国家>として世界に、東アジアに存立しようとする中国である。この中国とは1989年6月4日の天安門事件による改革的希望の圧殺の上に築かれた政治的、経済的大国中国である。この大国中国は、まや本気で、しかしいつでも暴動化する民衆を、あるいは周辺諸民族を抑え込みながら、<大中華主義的国家>中国たろうとしているのである。<尖閣問題>とは、この中国をわれわれの眼前に<衝撃>とともに登場させたのである。
<領土問題>は20世紀的な歴史問題の形をとり、その歴史問題の決着としての解決が求められたりしている。だが21世紀的現在のわれわれに突きつけられている日中・日韓の<領土問題>とは、決して1945年の問題でも1970年代の問題でもない。われわれが眼前にする<領土問題>とは、21世紀の現代中国・現代韓国との間に生じている問題である。それは21世紀的中国と韓国とわれわれが本気で向かい合いながら、どのようにして東アジア的世界をこの世紀に再構築していくかを追及することの中でしか解決しないと私は考える。私がいま「中国の衝撃」をいうのは、21世紀的中国の存立にわれわれがまず正面することからしか、新たな関係の構築に向けての模索もなにもないからである。
私は以上のような文章を2013年11月の「現代思想」特集号「尖閣竹島北方領土ーアジアの地図の描き方」に書いた。それは中国、韓国、そして日本でも政権の交代がなされようとする時期であった。この政権交代によって膠着した日中・日韓の政治関係に何らか打開の道がつけられることが期待された。だがそれ以降日中・日韓の国家間関係はむしろいっそう国家主義的・民族主義的対立の度合いを深めていったようにおもわれる、歴史修正主義者である安倍という政治家は、アジアに本質的なシンパシーをもっていないようにおもわれる。彼はただ中国に対する日米同盟を軸にした対抗的<帝国>の構築をしか考えようとはしていない。「中国の衝撃」のその後の東アジアは、<東アジア>をいうことさえ空々しい緊張と対立の中にある。
だがこの東アジアにおいて<もう一つの東アジア>への可能性をわれわれに開いたのは、昨年の春の台湾における学生・市民による中台服務貿易協定に反対する<太陽花(ひまわり)運動>であった。そして同じ昨年の秋には香港で2017年に予定されている行政長官選挙をめぐる中国側が設けた反民主的な規則に抗議する学生らは数万人で香港の中心部を占拠した。この台湾の学生たちもやがて占拠していた立法院から撤退し、香港の学生たちも中心街の占拠を解いていった。だがそれは決して運動の敗北を意味するものではなかった。台湾市民の、香港市民のほんとうの自立的運動がそこから始まったのであるし、<もう一つの東アジア>への可能性がそこから開かれたのである。そしてさらに彼らの運動は日本のわれわれに、沖縄における反基地闘争をただ沖縄県民、現地住民にゆだねていることへの批判を含む大きな問題提起であったと私は思っている。沖縄の<民>の抵抗運動もまた<ンもう一つの東アジア>を開く<東アジアの民>の連帯的運動の強い一環をなすものではないのか。

本書の第一部の第1章ー第5章は東京の昭和思想史研究会と大阪の懐徳堂研究会が主催する市民講座「中国問題」で講じられたものでる。第5章はこの市民講座とともに、ソウルの韓国学術協議会が主催するゼミナールでも講じられた。第6章は同じくソウルの韓国学術協議会主催の一般市民に公開された講演会でなされた講演である。また第7章は「朝鮮日報」社の企画する対話形式によるインタビューを受けた際の私の回答の全文である。以上の文章はいずれも日付をもっている。それらはみな2014年という<東アジア>の歴史的、政治的、言説的状況下での発言であり、文章である。
本章の第二部をなす第8章ー第11章の諸章は「中国の衝撃」とその後の文章というよりは、「中国の衝撃」を予想し、予感しながら書かれ、話された文章からなっている。そのいずれも台湾の新竹、アメリカのシカゴ、そして大阪の大学での講演・講義の原稿である。そしてこれらの文章もまたはっきりした日付をもっている。これらの日付は私における「中国問題」「東アジア問題」をめぐる21世紀の思考過程を記すものである。
私の「中国・東アジア問題」をめぐるこれらの論説はいずれも東京・大阪で、ソウルで、また台湾の新竹で市民・学生・研究者たちにむけて公開的に(オープンに)語られたものである。だがこれらを日本で印刷物として出版し、公開することは難しい。そこには<党派的>というべき規則がつきまとう。<党派性>とは社会主義だけの問題ではない。私は已むなくブログによって私の文章をネット上に公表していった。だがネット上の言説をどれほど多くの人が見ようとも、それが世の公開的言論(公論)を構成する力をもってはいない。私はやはりこれらの文章が一冊の本に編まれ、印刷され、出版されることを望んだ。私のこの願いに応えてくれたのは社会評論社の松田健二社長であった。私は松田社長のご厚意に深く感謝するとともに、この書の出版がそのご厚意に報いるだけの実績をもちうることを切に願っている。