ああ、アルトーを読み間違えていたかもしれない・・・愚かな!

ああ、アルトーを読み間違えていたかもしれない・・・愚かな!

あまり知られていない歴史だが、1930年代に、アルトーArtaudは、アイルランドに聖パトリックの杖を返しにやって来た。なんともこの胡散臭い杖ではあるが、どうもアムステルダムの骨董品屋で手に入れたらしい。ただかれはみかえりなしで杖を返そうとは考えなかっただろう。(ここが長年私の読み間違えだった。) 彼の到来の事実はアイルランドでは完全に無視されているかタブーだ。現在ダブリンに手がかりとなるものはなく、ただ彼の言う通りにしたがってかれのこの奇妙な互酬的行為の意味を理解するしかないわけだ。詩のよく統御された文体と曖昧な意味。ゾンターグによれば、解読されることも期待していない意味の不在の言葉が飛び散る。このなかで、「器官なき身体」と綴ったかれのことばほど、芸術におけるトポロジーの意義を先駆的に表現したことばはなかったが、このアルトーが本気で望んだのは、(現在日本のテレビ、インターネットに現れる)極右翼の政治家の高笑いのように、戦争で領土をもとめながら差別することの言葉で言い表せないナルシステイックな衝動にゆだねる欲望の空間に変身(写像)することであったのではなかったか。そこから繰り返される自己写像の果てに、自ら定位するこの欲望の連続性を爆発(消滅)できると本気でかんがえたのだ。(現在なお安倍政治に屈辱感を感じないとしたら、それはかれの言うとおりに他者を殺戮していったらもうやっていけなくなるというほどの孤立の痛さに打ちひしがれていないからだろう。)アルトーの身体における連続性の破れの痕跡が肛門に。知のファシズムに穴を本気に開けていくこの穴にこそ、屁 (=脱出)である詩の言葉が祀られるように書かれていた

 

Là ou ça sent la merde
ça sent l'être.
L'homme aurait très bien pu ne pas chier,
ne pas ouvrir la poche anale
mais il a choisi de chier
comme il aurait choisi de vivre
au lieu de consentir à vivre mort.
人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ
肛門の袋を開かぬこともできた、
しかし彼は糞をすることを選んだ
死んだまま生きることには同意せず
生きることを選んだからであろう。

o reche modo
to edire
di za
tau dari
do padera coco