なぜどん底にかかわるのか? ー 演劇を思考の方法として開いていくこと

なぜどん底にかかわるのか?

現在テレビ、インターネットに現れる極右翼の政治家の楽観的な高笑いに、現在なお安倍政治に屈辱感をあなたが感じないとしたら、あなたは極右翼の言うとおりに他者を否定し排除・殺戮していったらもうなにもかもやっていけなくなるというほどの孤立の痛さに打ちひしがれていないからです。まだあなたは、貪欲に戦争で領土をもとめながら、差別することの言葉で言い表せないナルシステイックな衝動にゆだねる欲望の空間にシニカルに戯れたいのです。これは象徴的貧困symbolic miseryとスティグレールBernard Stieglerが呼んだ崩壊と喪失の感覚と関係しているとおもいます。現在貧困の問題は、生産や経済生活とは異なるコンテクストでアプローチすることも大事になってきました。象徴的貧困からいかに脱出するのか?言い換えれば、なぜどん底にかかわっていくのか?解決すべき問題として、広がる貧富の格差の経済問題のほかに、この問題があります。「象徴的貧困」のスティグレールはドウルーズGilles Deleuzeから影響されていますが、ドウルーズが映画を思考の方法としたように、演劇を思考の方法として開いていくことが大切になってきたようにおもいます。私の理解ではありますけれども、その場合、再構成されていく演劇とは、芸術と政治の重なり合う領域を発見しこれを連続的に再構成していくプロセスであること。このプロセスにかかわることによって、全体性に包摂されないような、単独性と複数性を同時に生産していくこと。時間を占拠すること。この演劇の<つくる>本質は、ほかならない、共同体のひとりひとりの<自発性>に依ること。なによりもファシズムの国が怖れるのは、こうした人間たちの自発性によって、(他者を一律的にしたがわせる) 私たちのルール、私たちの生活様式、さらには私たちの言語、私たちの文化、私たちの政治システムに多数の穴があけられていく開かれたプロセスではないでしょうか。