東浩紀さんの「人文知は趣味として生き残ればいい」は、思想が含まれていない、言論なき包摂へかえっていく「狡知」人の言葉でしかありません。

「人文知は、趣味として生き残ればよい」

東浩紀さんは、実学か教養かという国家の二分法をいかに脱構築していくのかをいうのかとおもったらそうではありません。かれは実学と教養の間の中間を占める無限の系列についてなにかをいうわけでもありません。学問の批判精神の独立性は時代遅れなの?それについて語ることはタブーとでもおもっているのかしら?東さんは「趣味」をいうのは結構、だれも文句はいわないし、「趣味として生き残れ」という健全な小市民の内面化にはまりこんでくれたら、文部省は大歓迎でしょうけど。東さんはどこから来た思想家なのでしょうか?まさか、はじめから大日本帝国憲法から来たのではありませんね。ジョイスのデリダは差違と多様性に「Hello!」と言いました。東さんもこのデリダの差違と多様性の哲学から出発したはずなのに、このデリダのようには、差違と多様性に「Hello!」と言うことはありません。それどころか、「仕方がない」と、まずは文部省の大前提、差違と多様性を消し去る「狡知」を無条件に受け入れる。公に向かって公的な議論として差違と多様性を保てとはいわない。具体的には国立大学の人文系にも色々あるとは発言しない。国のやり方に行き過ぎがあっても結局は自分の知のビジネスモデルでカバーできるようなことを楽観的に自己宣伝。しかし国立大学だけの問題ではなく私立大学を含めた大学全部に及んでくるだろう国の市場原理の適用に対しては何もいわないことはどうなのでしょうか?自発的に学問した江戸時代のことをいうのだったら、中国にはない、またヨーロッパにはない、第三項的な「学者」(「儒者」)という言葉の意味について言及すべきでしたがね。東さんの「人文知は趣味として生き残ればいい」は、思想が含まれていない、言論なき包摂へかえっていく「狡知」人の言葉でしかありません。こういうネオリベの知識人(「狡知」人)が、勝手に解釈し都合よく歪曲した江戸時代の似非‘レッセフェール'を言い出し始めたことに警戒しております