感想文ー Rob Lucas氏の柄谷行人「世界史の構造」の分析を読んで (New left review 投稿 'socialism as a regulative idea ?')

柄谷行人氏の「世界史の構造」(岩波書店) に続く本が「帝国の構造」(青土社)でした。柄谷の中では世界共和国と帝国とは矛盾し合わないのはなぜか?これは、彼が依拠するカントの統整原理にユートピア的互酬性を読み出している柄谷の言説と関係しています。もし一国が一方的に軍備放棄を行うならば、贈与の効果として次々に他国の軍備放棄を導くというのが柄谷的互酬性です。さてグローバル資本主義の分割である帝国が世界共和国となる条件とはなにか?交換様式Dという互酬性のシナリオが帝国にも適用されます。例えば中国共産党武力行使を棄てれば贈与の効果として民衆側も武力を放棄します。世界共和国としての平和な帝国がいわれます。この柄谷の語りは、近代から近世を眺める近代主義者の典型的な語り、ー'合理的な'近代に先行して存在した'非合理な'前近代(近世)をわれわれの存在を規定する不可欠なものとみなしたうえで、ここに民主主義が定位する民衆のユートピア的互酬性を読みだすー語りなのです。しかし近世から近代をみる人だけが、近代の内部で民主主義が消滅しうる現実を見逃しはしません。いくら統整原理でも民主主義が無くなった後の近代の統整原理ー'朝貢貿易'を回想するユートピア的互酬性ーに、人々が依拠できるような未来が本当に存在するのかと問わざるをえないのです。未来がないと絶望したからこそ、天安門前の民主化運動が起き、オキュパイ運動に影響を受ける形で太陽花運動と雨傘運動が起きたのではなかったかと。柄谷の'統整原理としての社会主義'では、旧社会主義国民主化運動の闘争の意義を不当に無視してしまうとRob Lucasがズバリ指摘しているのは当然です。帝国ロシアに対するウクライナの人々の闘争の意義を過小評価して、世界史のなにもかも交換様式のシナリオに還元してしまってはどうなのか?帝国ヨーロッパに対するギリシャの人々の闘争は?帝国アメリカの軍事基地として対抗・帝国中国として組み込まれる暴力に反撥する沖縄の非暴力抵抗運動だってありますよ

 

<付論>

思想史 ーアナキズムから読む

後期資本主義における七〇年・八十年代のアナーキズムは、敢えてマルクスのもとで宇宙論的に物語ることをおこなった。そこで理論的に、ノマド的ウロウロウヨウヨから、互酬性と構造の知を切り離すことに努めたのである。グローバル資本主義の九〇年代のアナキズムがとらわれるのは、ポスト資本主義のユートピアであろう。現在のわれわれに影響を与える形で、ふたたび互酬性 (交換様式D)と構造(世界史の構造)を物語るヘーゲルの思弁的知へ後退してしまった。21世紀10年代アナキズムは、近代が定位する互酬性と構造の知に依ることなく、ワイワイガヤガヤと語る東アジアのカント (仁斎)を見出していく。だが白紙の本から、われわれ一人ひとりは一行一行なにを書くのか?20世紀の全部が役に立たなくなった。21世紀の機械仕掛けの正確さで隙間なく包摂してくる全体主義をまえに、われわれはなにも知らない。地球規模の包摂に抵抗する主体として生きるために、他者から学ぶだけであるー