ゴーリキィ「どん底」(東京演劇アンサンブル) 初日の感想文


 大きな芝居とおもいました。この芝居のゲネプロを一緒に見学した台湾大学の日本研究者は、人間の問題について深く考えさせられたと感想を述べていました。初日の舞台では登場人物たちの関係についてよく理解できました。「どん底」の空間が近代国家であること、また登場人物達が当時のロシアを構成する社会階層 (官警、金融・不動産ブルジョア、農民、民族主義者、宗教家、ヒューマニズムの人文科学の学者、学生、芸人等々) を代表している構造、がみえてきました。ここから、(恐らくは農民出身で高い教養をもつ) 「ルカ」と没落した自称貴族の「男爵」とが互いに似ているということを発見しました。それにしてもあれほど没落した貴族が本当にいたのか?帰りの電車でロシア文学の岩浅武久さんにお聞きすると、ゴーリキの書いている通りだったとのこと。だが「ルカ」と「男爵」との出会いがいかに実現したのか?この点について、アイルランドオスカー・ワイルドやミルトン・シングが驚嘆の念をもって、いかに英国貴族がアイルランドの農民とものの感じ方、考え方が似ているかを証言していました。彼...らの間の共通性ー「男爵」は「ルカ」に共感していますーは、農民と貴族という二つの階級が産業革命以降、ブルジョアに敗北した階級だという社会的な背景からある程度説明できるでしょう。「役者」の自殺で終わる最後では、 貧富の格差をかかえながらも、なお貧富を再生産する国家を維持していくことの無理が暗示されていたとおもいます。言うまでもなく、現代の話が重なり合います。政治を支配し、<公>に属する財産を奪う新「貴族」が主宰する現代。芝居はネオリベラリズムの資本主義に対する批判をなすものであります。どん底よりさらに深い底に降りたときにそこからあらわれてくる意気消沈というか、人間的な弱さと微妙さの真実をもっと見てみたいと思いました。全体主義的な権威主義とは、「この道しかない」という言葉を同一反復的に繰り返します。

 

発展していく舞台、稽古している役者が立つ舞台は、夜の渦巻いている海のようにみえます。天井から吊り下げられている、真っ白な幾何学的構築物(二つの互いに直角に交差した大きな長方形)は、最初は翳りのない木の枝にみえました。あるいは、プロペラ?だんだんと、俳優たちが相対する、鏡の中の奥の到達できない仮面にもみえてきました。天のX軸とY軸の抽象的な交差、交わった点の真下に向かってZ軸の垂直線を引いていくと、舞台中心に位置する曖昧に陥没した一点に?そこで、巻きかえして行く人間が、死に行く者の傍らで語っています。人間が再び天の方をみあげるとき、この人間は天に横断していくなにをみるのでしょうか?天と地の間を往復する路の運動、反復なき差異の生成、多様な渦の流れの方向、眠りと休息、そしてこれらのすべてを横断していく小鳥たちの歌声

 

全体主義はわれわれのどん底にある非合理な存在(ポピュリズム的独裁者)を不可欠の前提とした社会のとらえ方を行います。他方で、社会は非合理な存在を含むとした上で知を合理的なもの、倫理的なものに限定していく主張があります。つまり「他の道がある」と観客に訴えたナターシャこそが、われわれの思考を外部にむかって開いていく人ではなかったか。人間自身のことを対象とするラジカルな人間の演劇における、発展していく<過程>としての目的は、<過程>のほかの目的を持たないでしょう...

 

 

追記 (1)

「ルカ」「男爵」「役者」「ナターシャ」とか、たしかに、わたしたちは、不可避的に、自分自身が当事者でないことの距離に直面いたします。この距離の意味となにか?ことばが依拠する舞台というのは、自分に都合よく当事者ではないのに当事者になってしまった'代理'ではなく、 むしろ、ことばが依拠する役者の身体を通じて、当事者ではないことの距離を安易に消すことがない '代補' なんだなと。その距離をできるだけ豊かにしていくことにかかわる倫理性と表現の自己内省的な構造、こういうことを、発展していく舞台から学ぶことができました。面白いことに、観客席からみることは、距離の意味を問う、たとえば旅での思考に似ていますね。ーこれに比することができる思想としてプルーストがどこかで書いていたのですが、列車の旅とは出発地でもなく目的地でもない。旅というのは二点間を深めていくことなのだー。 動かずとも絶えず動くこと。コンパクトな空間の役者ひとりひとりが実際に動かずともなにかどこかにむかって常に動いているという印象、そのどこかははっきりとはわからないーデモの現場でもこんな感覚に出会います。とりあえず国会議事堂という説明できる目標がありますがー を観客にもたらしたら、それは充実した思考の時間を構成していく言葉の力なのではないかとおもいました。運動の目的とは運動の他にはないこと、このことを言葉と身体によって考えるというか・・・

 

追記 (2)

近代の思想は、18世紀のカントの人間学からはじまりました。ラディカルであるとは、事柄を根本 (どん底) において把握することです。だが、人間にとっての根本 (どん底) は、人間自身なのです。と、このことをカントに沿ってはっきりといったのは、19世紀のマルクスでした。しかしそのマルクスヘーゲルと同様に、あえて思想を、カント以前にあったような宇宙的・中世神学的に思弁的に再構築していくことに専念しました。それで、人間にとっての根本 (どん底) が掻き消されてしまったのでしょうか?いいえ、そうではありません。否応なくどうしても、痕跡という差異が残ります。つまり人間にとっての根本 (どん底) の痕跡が残るのです。21世紀のわれわれが完全に消し去ることができない痕跡としての、人間にとっての根本 (どん底)、それは人間自身...。そうして20世紀におけるゴーリキィの芝居のなかで執拗に繰り返されて一番多くあらわれる言葉は、ほかならない、「人間」という言葉だったことは、痕跡の運動としてあった必然性ではなかったでしょうか。今日の問題としてかんがえるとき、歴史修正主義者たちが消し去ろうとしているのは、全体主義的戦争という<戦前>の痕跡だけでなく、戦う国家を終わらせるとしたい平和主義の努力の<戦後>の痕跡だということです。現在行われている国会前でのたたかいの意味とは、記憶とともに生きる人間の痕跡を勝手に消させないというたたかいの性格をもっているのではないでしょうか。私はそうおもいます。(よかったらチラシの絵を御覧ください。植民地税である窓税が払えないアイルランド農民たちの石で塞がれてしまった窓を描きました。真ん中の水道管はアンネ・フランク記念館の彼女の部屋の傍にあったもの,工事のときのもの?を撮影したものです。外部と繋がる複数の窓の痕跡が残ることを願って)

 

追記 (3)

戯曲の男爵は女はゴーリキ「どん底」を読んでいると観客に告げてみたら、現代的な劇中劇の展開に。「役者」がハムレットに言及していますし、シェークスピアの劇中劇の構造を発展させた現代版ゴーリキを是非。「ナースチヤ」は常に「ルカ」の見ているものを背後から見ていたかもしれないし、おなじように「ルカ」も「ナースチヤ」が見ていたものを背後からみていたかもしれない。(だから'ブーツ'がみえた!) ゴーリキが本を読ませているのは「ナースチヤ」だけじゃないこと。「ルカ」も (彼の回想のなかで) 本を読んでいること。このことから、ゴーリキは、〔ゴーリキを体現するといわれる)「ルカ」の裏に「ナ―スチヤ」を、「ナースチヤ」の表に「ルカ」を配置したつもりかもしれません。たしかに、「ルカ」は自由の国にあこがれていた学者のことを語り、他方で「ナースチヤ」は軍人青年とフランス(ロシアの貴族・インテリがあこがれていた進んだ啓蒙の自由の国)を語っていました