もはや人類の行動から語るしかないじゃありませんか ー「戦争法案に反対しているデモを子馬鹿にしている人達は、このデモによって海外にいる日本人がどんなに助かっているかを知らない」

戦争法案に反対しているデモを子馬鹿にしている人達は、このデモによって海外にいる日本人がどんなに助かっているかを知らない」

欧米の国では常に国際放送に関心を払う相当に知識がある人でも(教えてあげなければ)彼らの殆どが日本に憲法があるとは知らないですから、最初から期待されていないという意味で戦争法強行採決で非難・説教されたりすることはないかもしれないというのが私の考えです。ただ冷たく無視され始めるんですよね、まるで存在しないかのように。これが大変辛い。問題は、助け舟みたいに日本に理解を持つ人があらわれても、生活の日常から日本における軍国主義・マッチョな権威主義ではないような、他の可能性を考えてきていないから、自己の意見を展開できないということ。さらに第三者的に中立の立場で(自分が反対する)政府の方針も説明しつくすから、個人の顔が消えるこの無意味な説明で、却って酷く失望されてしまう。非常に情けなく感じるときですね。優越的に、(難しい言葉ですが)超越的に、「白人」になればこの情けなさを解消できるか?日本の暴力の問題の解決が語られているのに、ヨーロッパの暴力の問題の解決を指摘すればなにかを言ったつもりの知識層はそうして日本の問題を隠蔽しています。だが(自分たちに都合よくねつ造した)ヨーロッパの「白人」になったのではそれこそ人間としては本当に存在しないことを自己証明してしまうようなもの。かといって対抗的に安倍がいう民族主義者になることも無理無理。民族主義的な罵倒と差別は連帯できません。他と繋がっていく可能性をもつ自分自身とも連帯できないでしょう。考えなければならないことは、人類の立場から、日本の暴力の問題を語ることの意義を知ること。民主主義を無にする権威主義体制への抗議に参加すること、このときに、日本の民主主義のことだけを語るのではなく、それがいかに西欧とアジアの民主主義と連帯できるほどの充実した量と質をもっているのかを検証すること。もはや人類の行動から語るしかないじゃありませんか。