カント的な経験知 ー 私たちはどんな時代に生きているのだろうか?

私たちはどんな時代に生きているのだろうか?

物理的に絶滅させるか、あるいは、文化的に同化させるのか?英米型と言おうとフランス型と言おうと、植民地主義のどの部分に視点を置くかの問題であって、帝国主義の本質的な支配に大きな差はないだろう。支配は一人でも食うことができなければ正当化されない。だが東西の歴史修正主義者たちは、恥じることなく、その物理的にも文化的にも正当化されなかった支配の歴史を隠蔽しはじめた。歴史修正主義者たちが定位する、ネオリベの市グローバル資本主義の分割である<帝国>は、帝国主義(ヨーロッパ・アメリカ)から来ようと社会主義(ロシア・中国)から来ようと、あるいは東アジアの対抗<帝国>中国(安倍自民党)であろうとも、どの新自由主義も市民たちから最低限度の生存条件(学校・病院・通信・新聞・放送など)の全部を奪うだけでなく、自立をもとめる市民の抗議を、エゴィスティックに独立を要求する民族主義の暴力と一方的にレッテル張りしてこれを弾圧しはじめたのである。イラクの人々への爆撃に十万人が抗議したダブリンから、99%が権利のない社会におしこまれるネオリベグローバリズムに抗議したロンドンへ移り、六年まえからヨーロッパから、力の限界に直面しながらもなんとか反原発反戦争法を訴える東京へ移ってきた。私はどんな時代に生きているのだろうか?2000年から問いはじめたこの問いにたいする答えは、もはや政党・国家・国民道徳にもとめようとはおもわない。おそらくこの問いはそれを問う一人一人の人間に委ねられている時代なのだ。実現しないことを言うこと(理念)は果たして無意味か?わたしはそうはおもわない。実現するかしないかは関係なく、民主主義の民主主義性とは一人でも食うことができなければそれは民主主義性ではない。二一世紀はこの民主主義の理念が立つことによって初めて政治がただされるとかんがえはじめたことだけは確かである。