断絶は思考の特異点とみなすべき思想史のブラックホールなのだろうか?ー 近代日本における近世からの断絶の問題

近代日本における近世からの断絶の問題

反復をいかに観察するか?同じことは再び起きない。常に異なるものが繰り返されるのです。さて古義堂の仁斎は倫理的な人間的世界を考えた思想家です。武士階級が支配者となる政治体制のもとで再び始まった学問の方向が、武士が反発した (朝廷・貴族・寺社が依存したいわば) 超越性に対する反発にどうしても規定されざるを得なかった事情があるでしょう。武士政権のおかげで朝廷・貴族・寺社の学問の独占がなくなり、江戸時代の町人を通じて近世の学問が立ち起こったことは必然性がありました。しかし決して単純ではありません。支配層の武士の中から被支配者の町人の学問を学び、これを発展させる者たちが出てきたからです。 (例えば「法の世界」のことを考えた徂徠)。ここから今度は町人階級が武士階級の研究から学び学問を発展させていきます(例えば国学を完成させた宣長は医者。文献的な方法として、文字なき美的世界の成り立ちについて考えました。身分的には仁斎と同じだったが、学問的には徂徠の研究に触発されたとかんがえられます)。見逃すことができない点は、こうした非連続性の連続性の根底に、いいかえると反復しない反復の傍らに、徳川日本の豊かな漢字文化が存在したことです。「論語塾」の子安氏によると、漢字文化が可能にした西洋文献の翻訳の蓄積がなければ、明治の西洋を学問を受け入れた近代化はそれほど成功しなかったにちがいないのです。(徂徠そして宣長・篤胤の研究から一定の影響を受けたいわゆる後期水戸学のナショナルな教説に規定されながら)、革命 (明治維新)をになった下級武士達は、しかし明治以降は、自らを、伝統をなす江戸思想の影響圏から断ち切っていくことになりました。ゼロから出発した近代といえるものです。例えば社会契約的な考え方はすでに江戸思想にあったことがわかってきましたが、あらためてそれがかえりみられることもなく、まったく新しく西欧の社会契約論がヨーロッパから輸入されたのです。このような近代における近世からの断絶は、どうして起きたのでしょうか?断絶は思考の特異点とみなすべき思想史のブラックホールなのだろうか?他の国ではどうなのか? 多くの議論がありますが、一見すると、イスラムの近代化は近代日本ほどには過去の伝統を断ち切ったようにはみえません。明治日本は日露戦争まで僅か三十年で近代化を達成させてしまいます。西欧のルネッサンスからの500年間をたった30年に縮約した、そんな日本の近代化は、それほど意味と内容をもっていたのかと問うたのは夏目漱石です。最後に、近代化における植民地化の側面を強調すると、極端に急激な近代化はアイルランドで起きた可能性のことが指摘されます。土着アイルランドの貴族たちの英国に対する蜂起が失敗したあと一斉に大艦隊でイタリアに逃げたためにエリザベス朝の植民地化を急激に推進させてしまったとみられています。ブライアン・フリールの戯曲「歴史を書くことMaking History」はこの歴史を題材にした芝居、大河ドラマで、ダブリンで大変興味深く観劇いたしました。