平民とはなにであったのか? ー 平民、労働者、大衆、民衆、丸山の市民、小田の市民

平民とは何であったか?

'平民'という言葉は明治に遡るのですが、'大衆'と同様に、大正からデビューしてくる言説です。蘇峰の平民主義は国家主義に吸収される'平民'です。他方で、国家に吸収されない'平民'を考え、(日本の歴史に欠けていた)民衆の自立性をいかに築くかという問題意識をもったのが中江兆民や津田宗吉の平民主義です。'平民'は子安宣邦氏が大正で発見した言説だといいます。暴動主体という'大衆'の登場に関しては、平民との対応があります。国家権力の収奪を目的とする社会主義の労働者をいう言説は、マルクス主義の教説にしたがって階級闘争へ転化していく力を構成しました。大衆の暴力は日比谷公園焼き討ち事件のような植民地戦争を推進し、またファシズムとしてのスターリニズムを成立させる力でした。他方で幸徳秋水が主張する、国家権力の収奪を考えない、ナショナリズムに行かない'労働者'の言説は重要。が、大杉栄のように20世紀においてはこれは孤立し国家に殺戮されていく言説でした。後期近代・グローバル資本主義の時代では、国家に吸収されない市民のあり方(丸山の市民ではなく寧ろ小田の市民)、国家的枠組みを外したアジア的連帯が注目されます。だが思想的反動が、「古事記」を復活させ古代史を実体化させている読みを通じてあらわれています。近代の「古事記」とは、観念上の構成物(を近代的に都合よく再構成したイデオロギー。国民文学の「古事記」)という批評性を欠いた読みのこと。山口や網野の (天皇性を安定させてしまう)民衆史的な天皇制的構造論、梅原の妄想的な歌舞伎古事記、そして古事記特集「現代思想」の上野千鶴子や三浦の古代史を実体化する仕事に警戒しています。「普通の人」「普通の日本人」という歴史修正主義的なナショナルな言い方が流通してきたことと相関的かもしれません、これらの言葉ほど、「普通の国」であることをやめるとした敗戦後の(平和への)誓いを嘲笑った言葉はありません