感想文ーMozart 魔笛Die Zauberflöte、フィガロの結婚Le Mariage de Figaroを観劇 (ポーランド国立室内歌劇場オペラ)

Mozart 魔笛Die Zauberflöteを観劇 (ポーランド国立室内歌劇場オペラ)

最後にロンドンで魔笛をみたときに、隣の観客女性が「オーストリアの政治権力を反映した物語」と連れの者に囁いていたのがずっと気になっています。そうなのでしょうか?三人の侍女たちはジオットの絵の天使みたいです。そういうこともあって、今回の舞台はいつもよりも弁者(僧)の存在感を感じました。さて第二幕では古代エジプトの弁者(僧)ザラストロは、タミーノとパパゲーノに試練を与えます。試練を乗り越えればタミーノはパミーナと結ばれ、パパゲーノは恋人を得られるのです。最後の試練は「沈黙」。この沈黙は一体なにを意味するのだろうかと私は考えました。沈黙で意味されるのは、話すことをやめること、代わりに、書くことではなかっただろうか、と、気がつきました。こんな風に考えているのはだれもいないと思いますが(汗)、 そうして再び舞台をみますと、僧が定位する文字の巨大な権力に屈するのは王子タミーノにとってはそれほど困難ではないけれど、外部者パパゲーノには同化の苦痛に等しいはずです。中々沈黙しないパパゲーノのお喋りな様子は、観客の笑いを誘います。が、これは帝国の統治というものがそれほど簡単には行かないことをあらわします。つまり帝国において周辺との政治的関係が絶えず緊張してきたことを教えるのではないでしょうか。ところがパパゲーノを文字なき道化とみなすときこのようなリアルな政治的な関係の隠ぺいが生じるのです。山口の天皇性的構造論のように、構造論的に王制を安定させてしまう物語に置き換えられていく解釈ということですね。

フィガロの結婚Le Mariage de Figaro1784は、コメデイフランセーズで初演、大革命を目前にした時期に旧制度批判と第三身分擁護という政治的意味をもっていたといいます。モーツァルトのオペラは、ボーマルシュ原作の風刺と反抗の精神をイタリア式恋愛抒情に置き換えてたとする解説を読むと、丸山眞男の本を読んだ後のときの感じで何も言えなくなる息苦しいさですね。どんなところにも現れてどの組織の部分になることがないケルヴィーナに惹かれます。かれの子供でないし大人でもない、また男性でも女性でもないアンビバレント多様性は、事実上追放を意味した軍隊入りによって、消滅してしまうことの悲しさ。おそらくはケルヴィーナは領主とフィガロより長く生存することがないでしょう。国家のために活躍した軍隊の死者だけが祀られるとしたら(「一億総活躍」の目指すところとおなじ)、伯爵夫人を慕って軍隊を拒もうとするケルヴィーナの魂は祀らない魂として徘徊するのか。と、ここまで書いたら、海の交通の多様なものと繋がっていた琉球のこと、全体の部分ではなかっ琉球をただの日本国家の沖縄にしていく、近代における従属のことを思いました。イタリア式恋愛抒情のことはわからぬが、バロックオペラ的散歩の自由と自立の痕跡ならば感じる所が大いにあったことは書きとめておきたいとおもいます