大島渚とゴダール

大胆にも、大島渚は自らがヌーヴェルヴァーグに十年先行できた理由として、フランスと比べて早く日本で共産党の権威の失墜が起きたからだと看破した。このときのゴダールの沈黙はどう解していいかわからない。大島に承諾するかは別として、やはり次のことを考えなければならない。公的なものを語る純粋理性としてのコミュニズムの自己否定はその反対物、極端に純化された私的なものへ行く。それは、文字を持つ者が投射する(どこの世界にも存在しないような)文字なき社会の如く表象されるところがある。( 例えば転向した?網野のアジールとしてのマーケット的世界。) 反論があるかもしれないが、パレスチナから帰還した80年代以降のゴダール映画をみると、ゴダールは純化された私的な感覚への埋没を隠蔽しているとおもう。「ソーシアリスム」以降は単純になったが、この時代は不気味な葛藤と隠蔽がある。ただしそこに、公的なもの (「社会」)と私的なもの(「個人」)との対立というステレオタイプのリアリズムの反復をみることはできない。そこが問題ではない。たしかに映画は多様になった。映画は美しくなった。そこが問題となってきたのである。マグリット・デュラスはゴダールにむかって、「あなたの映画はとても美しい」というとき、美しすぎると言おうとしていたと考えるのは過ぎたる深読みか?だからといって、芸術至上主義とか神秘主義とかをいう反リアリズムの陳腐な反復をみようとしているわけではない。宗教的な映画であれば、ゴダールはロッセリ二のように単純になっただろう。しかし言葉に覆われた美しい映画は複雑なのである。リアリズムからも反リアリズムからも自らを差異化する、美しい映画が反復すること、これが新しく言われはじめた言説である。映画の歴史において、このことの意味が問われなければならない。

Marguerite Duras; Ton film est très beau. Jen-Luc Godard;Tu sais dire du ben des choses, toi. Moim je sais mieux du mal. Marguerite Duras;Mais il ne faut pas en dire systématiquement, si tu ne le panses pas.Ton film est très beau, mais je me demande la raison d'être du text.On ne peut pas faire un film sans paroles?

デュラス「あなたのあの映画(「右側に気をつけろ」)はとても美しい」...ゴダール「あなたはほめる術を心得ている、でもぼくはむしろけなす方を心得ている。」デュラス「でもそう考えていないのなら、いつもきまってけなしたりすべきじゃない。あなたの映画はとても美しい。でも、どうしてテクストが入っているの。言葉のはいらない映画をつくることだってできるわ」