ウディ・アレンの新作「irrational man」

久々にウデイアレンの新作「irrational man」をみて映画館を出たとき、新聞の「二つのヒューマニズムについて」と題する記事を思い出した。(Une symbiosis de plus en plus initime enter l'homme 、Le Monde diplomatique : Les deux humanismes )    進歩的な人類的思想のモンテニューとモンテスキュー、そして普遍主義的思想のカントと彼から影響をうけたヘーゲルー不合理なものに制約されない理性の意義を強調したーが論じられるが、この二つのヒューマニズムから六〇年代の運動のときに人間化された環境が求められていくことになったという。それに反するのが危険な原発安全神話とかグローバル資本主義マネーゲームなのだが、これは映画についても言えることだ。ハリウッド映画と比べると、ウディ・アレンのニューヨークの映画はずっと人間的な視点で作られていることは確かだ。デリダそっくりさんの哲学教授が、ドストエフスキーの小説のなかに生きる。かれは定言命法に従って身知らずの女性を救おうとして裁判官を毒殺することに成功した。が、後日間違いであることが判明。裁判官は全く無実の人だった。が、教授は証人を殺そうと犯行を重ねる。というのは、アメリカのイラク戦争ー人類を救えという定言命法に従う?ーを喚起するストーリーになっていることは容易にわかる。アメリカは大量殺戮兵器が無いことがわかったときに戦争をやめるべきだった。そしてブッシュを国際裁判にかけるべきだった。だが現実にはどちらのことも実現しなかった。だからウデイアレンは小さな人間としての市民として映画を通じてこの問題を問おうとしたのであろうー未来に再び大きな人間と国家の過ちを繰り返さないために。アレンは三番めのヒューマニズムの流れとしてたたえようとわたしはおもっている