新オペザ座 ;シェーンベルグ「モーゼとアロン」 ー Arnold Schönberg、Opera " Moses and Aron " ( and Tarkovskii's image)

Arnold Schönberg、Opera " Moses and Aron " ( and Tarkovskii's image)

ポストモダン批評家やサイードはヴェルディを再発見し色々と論じました。今回はヴェルディではなく、新オペラ座シェーンベルクモーゼとアロン」をみにきました。オペラのテーマに関心があります。数年前の東京で「神曲」の舞台を非常に興味深くみたのですが、そのイタリア人の演出家が手がけるのでこれは是非観ておきたい、と。

神曲」のRomeo Castellucciが演出し照明と衣装を手がけてたシェーンベルグ「モーゼとアロン」の解釈空間は、変容を本質とする滑らかな空間であった。パンフレットに示された資料を見てタルコフスキー「ストーカー」はその先駆だったことにやっと気がつく。スクリーンに最初に投射される「兄弟」の意味はおそらくは、メタモルフォーゼである。モーゼに成るアロンに、アロンに成るモーゼ、一の純粋理性に成る多の純粋感覚、多の純粋感覚に成る一の純粋理性、目に見えない沈黙に成る目に見える沈黙、目にみえる沈黙に成る目に見えない沈黙、法の言葉に成る盲目の言葉、盲目の言葉に成る法の言葉。だが、このようにポスト構造主義が解釈できる滑らかな空間はそれほど対称性を保っていたのか。このことが、グローバル資本主義の動乱の時代に問われるはじめたのである。つまり対称性を破る経験のことも考える必要が出てきた。「モーゼとアロン」がイスラム性に成るヨーロッパ性、ヨーロッパ性に成るイスラム性を呈示するとき、オペラは消費されるだけの閉じた文化論的な読みを倫理的に許さないようなギリギリの政治性を帯びることになるのではないか。まだ批評はでていないようだが、この演出は危険なものを孕んでいる。国家の敵対的他者を揶揄することは言論の自由か、と、昨年デモとナショナリズムに巻き込まれたパリで、このシェーンベルグの「モーゼとアロンアロン」の意味はなにか?論争があるだろう。無ければヤバイのである。このようなヨーロッパのラジカルな脱神話化の方向の努力の比べて、われわれはなにをやっているのだろうか。この国には三文オペラ日本会議」しかないのか?だれがナショナリズムを相対化していくような、オペラ「日本書記」を書くのか?中国知識人と朝鮮知識人、彼らに育てられた日本知識人の共同作業と編集で書かれた「日本書記」の歴史を忘却して、現在の視点から「大和国家 」、単一の純化された古代日本をナショナルに実体化していく愚かな政治家と文化人の思考のナルシズム的破綻、国民道徳、他をみとめないヘイトスピーチの野獣性を嘲笑うオペラが絶対に必要だ。