「不可避性」の意味

近・現代ヨーロッパ語の言葉(英語・フランス語・ドイツ語の話し言葉)はギリシャラテン語の文法性に規定されているとおそらく同じ意味で、近・現代日本語は漢字と漢文に規定されているといえよう。だから、ー読まれるとヤバイが(汗)ー、「他者の不可避性」でいわれる「不可避性」においては、もし他者(漢字)を回避したらなにがおきるか?が問われている。回避したら思考それ自身が破たんするよというような示唆が含まれている思う。例えば、漢字を回避して大和国家の大和言葉を実体化するとき、そもそも、それを考えている現代日本語についての思考が成り立たなくなってしまうのだ。ここで注意したいのは、繰り返し誤解されるが、本居宣長はただ古事記の漢字を想定される大和言葉で方法論的に読んでみようとしただけで、かれは大和国家の大和言葉の実体的存在を証明したわけではない。またここで注意したいのは、私が使っている'規定'の意味である。日本語が漢字・漢文に規定されているという場合、現在の大地(日本語)を掘り起こせば必ず過去が現れるということは起きない。例えば和辻は「倫理」の語を過去の漢字・漢文リストの中に存在していたという。しかしそういう連続性はない。和辻が考えたような意味で、「倫理」という漢字は存在していないのである。寧ろ和辻が行ったことは倫理学アカデミーを近代化しようとして「倫理」(の語)を発明したことだった。一般的にいうと近代の知というのは、いつもこうして、自らの対象の欠如ー穴ーを埋めていく欲望なのかもしれない。こうしたエクリチュールをめぐる議論は近代の意味を考えるときに大変役に立つ視点を与えてくれることに気がつく。ここではもう詳しくは書けないが、例えば、行き詰まった近・現代をどうするかと考えるときに、回避してはならない、不可避の他者とはいったいなにか?を問うことが倫理的な問題を構成するからだ。結論。エクリチュールの問題は思想性・論理性のフレーム(枠づけ)を与えるのである。